暮しの音楽 うだっこのけしき

「秋田大黒舞」後編

旅人 寺田マユミさん

兵庫県生まれ大阪府在住のイラストレーター。2006年FM802主催digmeoutオーディションを通過したのち、雑誌、広告、個展、さまざまなアートワークなどで活躍中。最近では、2015年「UNKNOWN ASIA」(@大阪・中ノ島中央公会堂)参加「紀陽銀行×FM802×digmeout賞」受賞、2016年6月には、かもめブックスより、書籍「きっと いい日になりますように」を発刊。

大黒さまと秋田の人々

「秋田大黒舞」は、かつては収穫を祝う宴会などで集落のお母さん方によって披露され、皆で盛り上がり楽しむものでもあったらしい。

農家の多い秋田。
人の力の及ばない自然の摂理とともにあり、重労働を伴う農作業の日々に、そのような宴会はさぞ待ち遠しく、明るく心を支えるものだったろう。
とはいえ、忙しいなか時間をやりくりして集まり、唄や舞の練習をするだなんて可能なんだろうか。
疲労に押しつぶされやしないか。
いや、逆に、と思う。
それによって、救われていたのかもしれない。
大黒舞は、心や体に積もった塵を払い落としてくれるものだったのではないか。
由利高校民謡部の皆さんの秋田大黒舞がそうであったように。

秋田の農家の方々にとって、大黒さまは恐れ多くも近しい神さまだと思う。
唄い、舞い、聴いて、観て、崇める大黒舞。
目と口で味わう、もろこしの大黒さま。
ならばきっと、家々に飾られることで崇められているものもあるはず。

中山人形店 樋渡 徹さん

予感を胸に、翌日向かったのは、横手市の土人形の老舗「中山人形店」。
五代目の樋渡 徹さんが迎えてくださった。

入口から直ぐの飾り棚には、土人形が整然と並べられている。
古いものから新しいものまで。
そしてやはり、大黒さまのお姿。
心が躍る。
しかも、いく種類もあるではないか。

お話を伺うと、むかしは特に恵比寿さまとひと組で「えびす大黒」として飾られることが多かったとのこと。
商売繁盛のありがたいお二方。
その組が、いくつもあった。
なかでも、お帳面と打ち出の小槌を持つ大黒さまと算盤を持つ恵比寿様が、それぞれにっこり笑ってらっしゃる組が妙に俗っぽくて可笑しい。

考えてみれば、「微笑み」顔のお人形はたくさんあれど、「満面の笑み」をされているのは、恵比寿大黒の他にはない。
大きな笑みからは、大いに福が蒔かれて舞い込む。

中山人形は、土を型にはめて形作ったものに彩色した民芸品。
歴代の当主のオリジナルの型があり、型さえ残っていれば同じ形の人形が作れるが、彩色に関しては資料がなければまったく同じものはできない。(その前に、継がれているとはいえ、それぞれの個性が出るので、もとより同じものは作れないのだが)
知る人のいない古いものは、つまり、誰も知らない「新しい」ものだ、と樋渡さんはおっしゃる。
古い型は、新しい型に等しい。
なるほど。確かに。

大黒舞を追っての旅だとお話すると、えびす大黒を成型する「型」を見せてくださった。
土の塊は、型にはめられ、神様の姿となってお出ましになる。
くり返せばそっくりなものが何度もできる、なんて幸せなことだろう。

さらに、一枚のモノクロ写真パネルを見せてくださった。
そこには、積もった雪の上、敷かれた板にぎっしり並べられた土人形と、それを売る女性の姿が写っていた。
冬の間、野菜などが売られる朝市のなか、樋渡さんのご先祖は土人形を売っていたのだという。

真っ白な雪のなかに並ぶ色とりどりの愛らしいお人形たち。
それは、とてもとても鮮やかであっただろう。
きっと、ひとめで心を奪われる。
吊り橋の向こうにいる人に恋をしてしまうのに似て。

天候に一喜一憂し、朝から晩まで労働に明け暮れなければならぬ、雪深く娯楽も乏しい時代。
農家の方々にとって人形たちはきっと、やさしく寄り添い慰めてくれる大切な友人であり、大黒さまや恵比寿さまは、心の支えであった。
生きていく上でなくてはならないのは、食料だけではない。

ひとつずつ丹念に正確に絵付けされる樋渡さんの作業に、代々受け継がれている尊い精神を見た。
誰かの心を支えるものだからこそ。
責任と誇り。
中山人形は、だからとても美しい。

年末にほど近くお忙しい時期にも関わらず快くお時間を割いてくださった樋渡さんに深く感謝し、辞した。

さあ。
では、旅を締めに行こう。
大黒さまに会いに行こう。

補陀寺の大黒さま

秋田市補陀寺の境内にあるほこらに大黒天が祀られている。
雪が散らつく参道を行くと、目指す祠はすぐに見つかった。
一瞬間、言葉を失う。

その笑み。
なんという、やわらかい笑い顔。
つつまれる。そして、なにもかもを溶かす。
なんだろう、この感じ。
そうだ、これは。
春、だ。
そこにいらしたのは、春だった。

「型」という、この素晴しきもの。
うだっこ、舞、お菓子、人形。
研ぎ澄まされ極度に高められた特別な「型」は、先人からの何ものにも代えられぬ贈り物だ。
それは、わたしたちを支えてくれる強い味方。
その素晴しさを、きちんと認識しなくてはいけない。
そして、そのうえで受け繋いでいくべきなのだ。

「独創性がない」という意味の「型にはまった」という表現がある。
その場合の「型」とは、さほど心が篭められていないか、もしくは余分なものが混ぜ込まれているような型ではないだろうか。
継ぐべき素晴しい型か否かを見極めることこそ、大事。

良い型ならば、「はまる」のではなく、自ら「はめる」という選択。
みんな同じになるではないか、なんて心配は無用だ。
なぜなら、はめる側のその人は、他の誰でもないのだから。
そして良い型は、寛容さも持ち合わせている。
型から出てから、創めればいい。
まったく同じになるなんてことは、ありえない。

素晴しい先人からの型を活かすも殺すも、託された者次第というわけだ。
私たちが、きちんと立ち、進んでいけるのは、そこからなんじゃないか。

心して行かねばならぬ。
そのさきに、春は待っているから。

おわり

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