対談「なまはげ文化人類学」石倉敏明×井野英隆

後編

この記事は、2017年12月に秋田県男鹿市で開催したイベント
ReDiscovering.jp –The Oga Peninsula-」を編集したものです。

人類学者の石倉敏明さんと、augment5の井野英隆さんによる対談。後編では、神の魚と書く秋田県の魚「ハタハタ」の話から、男鹿そのものの魅力にまで話は広がっていきます。

1974年東京都生まれ。秋田公立美術大学美術学部アーツ&ルーツ専攻、及び大学院複合芸術専攻准教授として、文化人類学や東北日本の文化的ルーツについての授業を行っている。

1983年生まれ。augment5 Inc代表。独自に制作を進めていた日本各地域の映像が話題となる。中でも秋田の暮らしの風景を映し出した「True North, Akita.」は、世界で400万回以上再生されており、2017年10月には初の長編映画「ReDiscovering.jp」を完成させる。

外から内へ、内から外へ

石倉
大晦日の夜、男鹿の各集落では、なまはげの面と装束をつけた男たちが唸り声を上げ、騒音を立てながら家の中に侵入してきます。いつもその地域にいる神さまではなく、特別な機会にだけ現れる「客人神まれびとがみ」、いわば共同体の外側から内側へ、時を定めて訪れる怪物的なキャラクターです。

鹿島様(湯沢市岩崎地区)

これに対して、秋田では内陸部の横手盆地や仙北平野で「鹿島かしま様」や「鍾馗しょうき様」と呼ばれる人形道祖神どうそじんがたくさん祀られています。
これらは悪い病気や禍々まがまがしい出来事、災害などを寄せ付けないように、村の境や辻に設置された大きな藁人形の神さまです。つまり「来訪神」ではなく「常在神」と呼ばれる存在で、文字通り「いつもそこにいる」神さま。仮面・仮装の神とは違って、原則的に人間が人形の中に入ることはありません。
人形道祖神のご神体は、「鹿島流し」「人形流し」のように、ある時期に集落を回遊して、けがれや災害を祓うために川に流される地域もあります。この場合は、なまはげとは反対に「共同体の内側から外側へ」と向かっていますね。このタイプのお祭りは、春の農事が一段落した、春から夏へと移行する時期に行われることが多く、冬から春への移行期に沿岸部で行われるなまはげ行事とは実に対照的です。

横手かまくら(写真:船橋陽馬/なんも大学)

小正月の時期に、同じく内陸の横手盆地や仙北平野で行われる「かまくら行事」では、雪でかまくらを作って、雪室ゆきむろの内側にいる子どもたちが外側の人を迎える、というやり方になっています。
沿岸と内陸、仮装と人形、冬と夏、内と外という、いくつもの対照的な関係が、時間と空間を通して見えてきます。こういう対比が残っている秋田という地域は、文化人類学的にも非常に面白い地域だと思います。
井野
秋田の魅力がよくわかりますね。
石倉
こういう広い視点から、もう一度男鹿の文化を見てみると、少し解像度の高い「地域性」が見えてくるように思います。先ほどお話しした通り、真山神社の「なまはげ館」には、男鹿半島の各集落のなまはげのイメージが展示されています。

写真:船橋陽馬/なんも大学

だいたい、何か一つのイメージが面白いとされてしまうと、それが一般化してしまいますが、男鹿ではそれぞれの地域でいろんなイメージがなされていて、その仮面の材料は、木材や樹皮、ブリキ、色紙など、あり合わせの材料を使って、地域ごとに異なるやり方でなまはげという精霊をイメージ化していることがわかります。
たとえ荒削りであったとしても、あり合わせの材料で「野生の想像力」をイメージ化した造形の方が、より生々しく、強烈な印象を与えてくれるんですよね。

ハタハタという来訪神

石倉
これまでお話してきたように、なまはげは家々の外から内へとやってくる冬の精霊ですが、そういえば、「神の魚」と書く「ハタハタ=鰰」も、ちょうどいま(12月)、産卵のために秋田沖にやってくる時期ですよね。この魚に対する秋田県民の情熱は凄まじいもので、特に男鹿はこの時期、すごい熱気に包まれるんですよ。
井野
じつは僕、昨日の夜、北浦きたうらの漁港に2回も行っちゃったんです(笑)。
船から揚がったハタハタをメス、オス、大・中・小で分けるんですが、おじいちゃんおばあちゃんたちが、めちゃくちゃ楽しそうなんですよね。夜中の11〜12時くらいになっても、ず〜っと楽しそうにやってるんですよ。
石倉
うんうん、わかります!
井野
今年は本当に獲れなかったみたいで、ようやく一昨日かな? 新聞に「ハタハタ6トン!」って載っていて。もう本当に嬉しそうでした。やっと来た! っていう感じで。
石倉
まるで、旧友と久々に再会したような喜び方!
井野
昨日は車の数が本当にすごかったんですよ。「なんで今日こんなに車通ってるんだ……? あ! みんなハタハタ買いに来てるんだ!」って(笑)。
そういう姿を見ていると「秋田県は人口減少率ワースト」とか、そんなこと心配しなくてもいいんじゃないかなって思えるんですよね。こんなに幸せそうなんだから。
石倉
人口が増えれば幸せになれるのか、というと必ずしもそうではない。成熟型の小さな社会、地域文化を目指す方向だってあるはずですよね。
それに、男鹿のかたはみなさん「贈与」の感覚を持っているのかもしれませんね。野生の海産物っていうのは人間が管理しきれないものなので、常に「もらってくる」しかない。海との関係性で、定期的な収量が計算できないから。つまり、多いときもあれば少ないときもある、という一種の振れ幅をもってしまうんですけど、だからこそ「海から与えられる魚が本当に嬉しいんだよ」という。
井野
なるほど。
石倉
そして、秋田のハタハタは産卵のためにやってくる。ハタハタというのは秋田だけではなく、じつは、日本海沿岸で広く食べられているんですが、秋田に来るハタハタと兵庫や鳥取のような西の地域で食べられているハタハタは、回遊する時期が違っているんですよ。
井野
そうなんですね。
石倉
秋田は産卵期に漁をしているということもあって、特にブリコ(ハタハタの魚卵)に対する愛好が強いんですが、他の地域のハタハタ料理には、ブリコのイメージはあまりないんですよね。 サンタクロースはプレゼントを持ってくるけど「ハタハタはブリコを持ってくる」っていうのが、秋田県民にとってはすごく意味があるようです。
井野
言わば、ブリコがプレゼントなんですね。
石倉
来訪神のことを「マレビト(客人)」「マロウド」って言ったりもしますけど、民俗学者の折口信夫は、この「外から来る神」こそが、その土地の古い精霊の姿なんだと言っています。つまり、最も古い精霊が毎年帰ってくるイメージなんです。
井野
ハタハタも毎年帰ってくる。

写真:船橋陽馬/なんも大学

石倉
そうなんです。男鹿の家庭では、なまはげが家にやってくるとハタハタと日本酒のお膳を出してもてなすことが多いですよね。ハタハタを「神の魚」と書いてお祭りをして食べるというところからも、ハタハタは来訪神であり、土地の精霊であるという考え方が残っているのがわかります。
なので、男鹿の真山しんざん神社にも「マロウドがみ」が祀られていたり、男鹿半島の周辺にはハタハタの供養碑や神社、お祭りもあるんですよね。

稲作から狩りへ

石倉
秋田は古くから狩猟採集民が暮らしてきた土地でもあるけれど、その後は東北の中でも比較的、稲作化が進んだ土地でもあります。ですが、庶民の文化の中には、未だに「狩猟採集民」のセンスが眠っているのを発見して、驚くことがあります。
春から秋まで一生懸命農作業をして、おとなしく稲作中心の暮らしをしているように見えるけれど、春・夏の山菜、秋のキノコ、冬のハタハタ、という三つの目的が目の前に現れた瞬間、秋田県民の顔つきがみるみる変わっていく。眠っていた縄文の血がよみがえります(笑)。
井野
たしかに! その時期の熱狂はすごいですよね!
石倉
あきたこまちと日本酒を愛する稲作中心の「弥生人」のマスクを脱ぎ捨てて、突然、野生的な「縄文人」の顔が現れるんですよ(笑)。僕は、秋田県民のそこがすごくチャーミングだなと思います。
空も曇って、だんだんと寒くなっていく年末の時期、普通だったら鬱々としそうじゃないですか? それを「いま来るか、今日来るか」って天候の具合を見ながら、むしろ天気が荒れ、海水温が下がって産卵条件が整うことを期待する秋田人。僕は、この魚食文化の成熟具合を、世界中の人に知ってほしいんですよね(笑)。

土地の代弁者

石倉
ご紹介してきたように、たくさんの民俗学者やアーティストが(対談記事の前編中編参照)、なぜ男鹿に興味を持ったのかというと、菅江真澄のような旅人の記録に加えて、在野の住民が書いた記録が残っていたという理由も大きいんです。
井野
それは面白そうですね。
石倉
男鹿に住んでいた吉田三郎さんという在野の民俗学者が書いた「男鹿寒風山麓農民手記おがかんぷうさんろくのうみんしゅき」という本があって、お祭りや盆踊りのことや、一年間毎日食べたものまで、すごく細かく記録しているんですよ。これを読むと、頻繁に食べられていたのは兎の肉。たまに犬も食べています。
井野
いつの頃の記録ですか?
石倉
これは昭和10年頃。1930〜40年代ですね。地域にこういう「土地の声の代弁者」がいるっていうのは、その地域の強さになってくると思います。
井野
そういえば、僕の亡くなった祖父は、仕事で使っていた本や文房具の一個一個、全てに「どこでいつ買って何円だった」「買ったときこういう話をした」っていうようなメモを残しているんですよ。それって、何か目的のためとか、家族のためとか、目的はわからなくても「文字にして残そう」っていう意志を感じますよね。
石倉
うんうん。
井野
それがいまだとSNSだったりするんでしょうけど、これらはアカウントが消えた瞬間、全部消えてしまう。すると「その時間ごと、魂ごと消える」みたいな感覚があって。
昔は、何かを喪失するときには、ちゃんと儀式をしていたじゃないですか。例えばアイヌだったら、着ているものやコップ一個でも、全部「送りの儀式」をして、形をなくして送ってあげるとか、そのときにかける言葉をちゃんと選ぶとか、すごく意識して送っていたはずなんです。でも、いまって喪失するときの意識が麻痺していて、何を失っているのかすらわかってないんじゃないかなって。文化財とか観光資源も一緒ですよね。そういう感覚が、僕はいまとても怖いと思ってます。
石倉
実は何気ない日常こそ、失われてしまったら二度と戻ってこないんですよね。道具や風習もそう。最近、ミサイルが話題になっていますけど、それこそ戦争なんて……。迎撃ミサイル基地が秋田市の市街地近くにできたら何がどう変わってしまうのか、その想像力が必要ですよね。
実は、吉田三郎さんの記録を始め、幾つかの重要な秋田の民俗誌は、太平洋戦争に向かって国中が加熱していく「転換期」に書かれています。もう一つ大事なことは、八郎潟の干拓です。これによって男鹿半島から五城目や潟上にかけての小正月文化は、大きく変わってしまいました。小さなものほどその大切さに気付きにくいってことがあると思うんです。
井野
そうですね。
石倉
井野さんたちが撮った男鹿の映像もそうで、時間は短くても、一編の映画を観終わったような気分になるのは、その中の一つひとつのかけらに収められている情報量や、その密度が大きいからだと思います。
すぐに言語化できないかもしれないけれど、大事なものがそこに写っているって、みんなが直感するわけですよね。50年後に改めて映像を見たら「こんなものがあったんだ!」というふうになる可能性が、大いにあると思うんですよ。
井野
映像を撮っている間、いつも「自分が一番得してるなあ」って思うんですよね。誰かの生き方を知れるってすごいことじゃないですか。そういうなかで、最近はとくに音声情報に注目しているんですよ。日本の文化って、口頭や文字に落とされない部分で伝わってきたことってすごくたくさんあるなって思っていて。お茶や踊りのような正統的な流派があるものほど、教典がないんですよね。言葉がどんどんなくなっていって「魂」というか、生きている情報を飲み込みながら伝わっている。
自分たちの世代はインターネットから情報を浴びてきた感じがするけど、いま求めているのは、そういう「生きた情報」をインプットしてくれる機会なんですよね。でもいま、祭りや文化は形骸化してきていて、本質がわからなくなってきている。そうなると自分で見たり、動いたりするしかなくなるんですよね。
石倉
「生きた情報」は世界に溢れているのに、なかなか届かないところに埋もれている。特に、インターネットの利便性に慣れている若い世代は、検索で出てくる以上のリソースを探しに行くことに慣れていません。自分の目で確かめたり、調べたりするってことが、億劫になっている感じがあるんですよね。域の強さになってくると思います。なぜ民俗学者が男鹿にたくさん来たのかというと、地域に住んでる方が記録していたものが残っていて、しかも、それがとても面白いからなんです。
でも、実は男鹿のような地域にこそ、たくさんの「生きた情報」が眠っています。それを発見するための旅は、安易な地域振興や観光キャンペーンの祭りに参加する旅よりも、ずっと面白い。
僕もこの数年間で実感したんですが、きっかけや動機付けがあれば、若者たちは目を輝かせて、いろんな場所に出かけて行くんですよ。祭りも形骸化したり、廃れていくことは避けられないかもしれない。でも、「生きた情報」を継承できれば、一度廃れた祭りを復活させたり、新しい生命を吹き込むことだってできるはずです。観光の意義も、これから大きく変わっていこうとしています。
井野さんが言ったような、漁師さんたちの肉声の情報や、見過ごされてしまいがちな小さな情報のかけらが、なまはげ行事にとっても一番大切です。それを、自分が気になっている小さな断片から形にすることが、本当の力になっていくと思います。
「自分でやる」っていう動きがすごく大事。そういう動きがいろんな場所から生まれていって、かつての男鹿がそうであったように、その土地土地の「代弁者」が生まれていったら面白いですね。

完

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