秋田の伝承学 白岩焼

講師 白岩焼 和兵衛窯 渡邊 葵 さん
  • 1話 復活した「白岩焼」
  • 2話 「白岩焼」が生まれる場所
  • 3話 「白岩焼」を受け継いで
  • 4話 秋田の風土を映す器

文・鈴木いづみ 写真・高橋希

鈴木いづみ/岩手県一戸町出身・盛岡市在住。30代半ばでいきなりライターになり8年目。「北東北エリアマガジンrakra」をはじめとする雑誌、フリーペーパー、企業や学校のパンフレットまで幅広く(来るもの拒まず)活動中。

3話 「白岩焼」を受け継いで

70年という空白の時代を乗り越えて、白岩焼を現代に復活させた和兵衛窯。その窯元の娘として生まれ育った渡邊葵さんは「受け継ぐこと」をいつから考え始めたのでしょうか。そして2代目として制作に取り組む今、白岩焼をどのように捉えているのでしょうか。

「継がせたい」「継ぎたい」とは誰も思っていなかった

鈴木
葵さんは、小さいときから「白岩焼を継ごう」と思っていたんですか?
渡邊
いいえ。両親は「仕事場は大人が仕事をする場所」というスタンスで、小さいときから工房で遊ぶとか手伝いをするというのはなかったんです。美術には興味があったので両親と同じ大学(岩手大学)に進学しましたが、専門は美術史でしたし。
鈴木
へえ〜! じゃあ、いつから?
渡邊
当時、美術史の研究室の先生について東北の仏像を見てまわる機会があったんです。震災以降でこそ、東北の仏像は注目されるようになりましたが、そのころはまだマイナーなもので、いわゆる学術的な評価も高くないし、保護管理が行き届いていないものも多かったんです。そんななか、朽ちそうな仏像を一生懸命守っているのは、その土地その土地のお年寄りたちだったりしたんですね。お年寄りたちは学術的な評価なんて関係なく「そこに昔からある大事な仏さん」だから守っている。そういう状況を目の当たりにしたときに、地方の文化への評価のありかたとか、「文化が継承されるには具体的な誰かの情熱や努力が必要なんだ」ということをすごく考えるようになりました。
鈴木
うんうん。
渡邊
それから、同じく大学時代、バイト代を貯めては全国の美術館とか、やきものの産地を巡っていた時期があって。白岩焼の海鼠釉なまこゆうのルーツって、もともとは中国・朝鮮のやきもので、それが九州経由で日本に上陸して東北まで北上するっていう歴史の流れがあるんです。各地のやきものを見ていると「あ、海鼠釉の兄弟だな」とか類似点もたくさん見えてくるし、それと同時に白岩焼ならではの形とか色の個性も際立って見えるようになってきたんです。
鈴木
白岩焼をやる、と言ったときのご両親の反応はどうでしたか?
渡邊
自分たちが苦労したから、というのもあるのか「本気かなぁ?」と最初は取り合ってもらえませんでした。「親から学ぶのがいちばんの近道」という期待があったのも正直なところです。
鈴木
でも、現実は甘くなかった?
渡邊
そうですね。その頃母は裏方に回ることが多く、主に父から教わっていたんですが、親子だからこそうまくいかないこともあって。「このままじゃダメだ」と、京都にある陶芸の学校(京都府立陶工高等技術専門校)に行き、技術を身につけました。
鈴木
お父様のやりかたと、京都の学校で習ってきた技術って、違ったりしませんか?
渡邊
はい。帰って来てすぐは「お前の作るものは薄すぎる。白岩焼はもっとどっしりしている」と言われたりしました。だいぶ親子喧嘩しましたね(笑)。

伝統と、新しさと。

渡邊
ここが私の仕事場です。もともとは父の仕事場で、2人並んで作業していた時期もありますが、親子喧嘩が絶えなくて(笑)。父が「仕事場はそれぞれ別にしたほうがいい」と言って、登り窯のほうへ自分でリフォームした仕事場を作りました。
鈴木
きれいに整理整頓されていますねえ。
渡邊
父からは怒られますよ。「散らかってる」って。
鈴木
えー! これでもですか? お父様が私の仕事場見たら、卒倒するだろうなあ……(苦笑)。こちらにある瓶はなんですか?
渡邊
これは「金彩きんさい」という、金やプラチナを焼き付ける技法で使う釉薬です。京都にいるときに覚えた技法で、「うちの器に取り入れたら新しいことができるんじゃないか」と思って。それに東北でやっている人があまりいない技法なのも強みになるかなと。
鈴木
こういう新しい……というか、もともとの白岩焼になかった技術を導入するときは、ご両親に相談するんですか?
渡邊
それが、大変だったんです(笑)。わたしは器に撥水剤を塗って釉薬を弾き、そこに金やプラチナを焼き付けることが多いんですが。その撥水剤がシンナー系の溶剤なので匂いも強いんです。父がそれを嫌がって。「人体に悪いようなものを使った仕事はするべきじゃない」と撥水剤禁止令がでました。
鈴木
うーん……。お父様の気持ちもわかりますね。
渡邊
それで、うちの窯でもともと使われていたロウを使いやすようにいろいろ加工して、撥水剤の代わりに取り入れたら「それだったらいいだろう」と。
鈴木
おお、歩み寄ってくれた!
渡邊
そうそう(笑)。そんな風に、喧嘩しながら乗り越えてきました。母がいつも間に入ってくれて、父をなだめつつ私の愚痴を聞いてくれたのが大きいです。
鈴木
でもお父様とぶつかってきたからこそ、今の葵さんや白岩焼があるのかもしれないですよね。作り手としてのお父様ってどんな人ですか?
渡邊
父は夢中になると「ご飯だよ」って声をかけても気づかないタイプ。入り込むととことんこだわって、他人がどう評価するかをあまり気にせず「自分が作りたいもの」を優先するところがあります。
鈴木
すごい、まさに芸術家タイプですね。

葵さんの父・渡邊敏明さんの彫塑作品。寺山修司が書いた映画の論評から着想を得たという。

渡邊
父はアーティスト気質で、変なもの作るんですよ。でも、父が作るものは面白いなあと思うし、発想や造形性を尊敬しています。もうちょっと家計のことも考えてって思いますけど(笑)
鈴木
お父様と葵さん、似ているところもあるんじゃないかなと。
渡邊
そうですね。私も、仕事が好きでそれ以外はどうでもいいところがあったりするので、そこは似ているのかもしれないです。

今、生きている人に使ってほしい

鈴木
「これは白岩焼だ」ってわかる伝統的・普遍的な部分を残しつつ、葵さんらしさや新しさを出すのって、難しいんだろうなあと思います。
渡邊
あ、そうおっしゃっていただけるの、うれしいです。「新しいけど、白岩焼だよ」っていうのは意識しているので。
鈴木
昔の復刻版ではなく。
渡邊
そうです。「海鼠釉を使う」という縛りのなかで、今の人に面白いと思ってもらうためには、どんなデザインにしたら良いだろう? というのは考えます。今、生きている人に使ってほしいので。
鈴木
アクセサリーを作るのも、そういう気持ちからですか?
渡邊
そうですね。海鼠釉って個性が強いので、食卓に並べたとき、他のお皿と喧嘩しちゃうこともあるんですよね。けれど、その個性の強さって、装飾品にしたらパッと目を引くものになるなって思って。
鈴木
若い世代に、白岩焼を知ってもらうきっかけにもなりそうですね。
渡邊
そうだといいな、という期待を込めて作っています。たとえば、わたしが作るご飯茶碗とピアスって同じ値段なんですけど。同じお金を使うなら、10代20代だと「いい器を使いたい」より「着飾りたい」に気持ちがいくと思うんです。
鈴木
実際、反応ってどうですか?
渡邊
自分が想像したより、アクセサリーを買ってくれる年代層が幅広くて。男の人もピアスを買ってくれたり。
鈴木
へえ〜! 今後、こういうことをしてみたい、というのはありますか?
渡邊
まだまだ、器の種類も少ないので、これからもっと増やしたいというのはありますね。窯焚きするごとに新作を作るようにしています。
鈴木
おお、楽しみです!
渡邊
新作を「これって、もしかしてすごくいいかも?」って一人でニヤニヤして眺めているときとか、すごく楽しいです。焼き上がりをみたら「あれ?」ってなったりもするんですけど(笑)
鈴木
そんなふうに、ワクワクしながらものを作るって、いいですね。
渡邊
はい。いつも、そういう期待を持ちながらやってます。

「今、生きている人に使ってほしい」という葵さんの言葉、ぐっときました。先人が残したものを大事にしながら、白岩焼は今を生きている。決して骨董品のレプリカではないのだと。白岩焼を現代に蘇らせたご両親の覚悟や情熱はしっかりと受け継がれていて、葵さんの手によってさらに広がっていくのだろう、と感じました。
次回は、白岩焼のこれからについてお話を伺います。

秋田の風土を映す器 へつづく

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