暮らしの音楽 作曲家・成田為三

後編 日本で初めての童謡

青木慶則のソロ変名ユニット。シンガーソングライターでありながら、CMや映画、演劇の音楽制作、歌唱、ナレーション等でも活躍。NHKみんなのうた「ウェイクアップ!パパ!」、Eテレ0655「きょうの選択」など、幅広い年齢層に響く歌声を持ち味としている。最新作は2016年3月に再リリースしたチャリティアルバム「南三陸ミシン工房のうた」。www.harcolate.com

前回に続き、秋田が生んだ作曲家・成田為三さんのことを追ってみたい。大正6年に東京音楽学校を卒業した為三さん。翌年には「浜辺の歌」が楽譜として出版され、華々しいデビューを飾ったのは前回も書いた通り。そのかたわらで、教師として佐賀で1年間、東京で2年間、学校の教壇に立っていた。

そんななか、小説家・児童文学者の鈴木三重吉みえきちが主宰した子どものための雑誌「赤い鳥」の刊行が始まる。北原きたはら白秋はくしゅう芥川あくたがわ龍之介りゅうのうすけ、三木五郎など当時の代表的な文学者が集まり、文学だけでなく音楽の楽譜も、子どもたちのために掲載していこうという声が高まった。

「浜辺の歌」の実績を買われたのか、さっそく「赤い鳥」第2号で為三さんに声がかかる。そこで為三さんが作曲したのが「かなりや」。これが日本で最初の童謡となり、「赤い鳥」専属作曲家となった為三さんは、ほぼ毎号のように童謡を発表していくことになった。

為三さんの先生であった山田耕筰や、近衛このえ秀麿ひでまろなど有名な作曲家たちも、為三さんの後に続く形で「赤い鳥」に曲を発表するようになる。今では子どものための音楽は当たり前のように存在するけれど、数多ある日本の童謡の最初の流れを作り出したのは、まぎれもなく為三さんだったのだ。

ここで少し僕のことを書かせてもらうと、これまでシンガーソングライターとして活動するかたわら、コマーシャルの歌やナレーションなど、テレビから流れる「声」の仕事もいろいろとさせてもらっていて、そんななか「NHK みんなのうた」をはじめ、子ども向けのテレビ番組の歌を担当したり、作曲をしたりすることも増えてきた。

それはもしかしたら、僕の声の特徴によることも大きいのかもしれない。大人っぽく歌おうとしても、あどけなくなってしまうのがコンプレックスでもあったのだけど、それを子どもたちが気に入ってくれたのならと思うと、報われた気持ちにもなった。でも、そんな日本の子どもたちが昔から歌ってきた「日本の童謡」を、僕はちゃんと掘り下げて勉強したことがなかった。

実を言うと、今までの僕はドミソのCのコードだったら最後はドで終わるような、誰にでも分かりやすく作られた音楽があまり好きではなかった。洒落が効いていて、奥が深くて、前衛的で……そんな音楽ばかり聴いたり書いたりしてきた。

でも「浜辺の歌音楽館」1階のリスニングルームで為三さんの作品をたくさん聴かせてもらっているうちに、突然、自分のなかで「童謡スイッチ」が入る。ああ、こんな風に心にスッと入ってくる音楽を、もっとたくさん歌ってみたいな。子どもには歌の楽しさを、大人には淡い郷愁もプラスして。

リズムが小気味よく跳ねていて、コロコロ転がるような可愛らしいメロディが為三さんの童謡には多く、僕の声質には特にそんな曲が合っているような気がして、何度も聴いてみる。「犬のお芝居」「赤い鳥小鳥」「葉っぱ」「ちんちん千鳥」僕が最終的に選んだのは、この「りすりす小栗鼠こりす」というとても短い曲。

りす りす 小栗鼠
ちょろちょろ 小栗鼠
あんずの実が 赤いぞ
たべたべ 小栗鼠

りす りす 小栗鼠
ちょろちょろ 小栗鼠
さんしょのつゆが 青いぞ
のめのめ 小栗鼠

りす りす 小栗鼠
ちょろちょろ 小栗鼠
ぶどうの花が 白いぞ
ゆれゆれ 小栗鼠

Play

今回も我が家のアップライトピアノに歌を重ねて。レファ#ラのDのコードで歌ったので、最後はレで終わったのだけど、端から端までのユーモラスで起伏に飛んだ展開があるからこそ、気持ち良く着地できる。やっぱりリスが枝から枝へ飛び移るさまをイメージしたのかな。

続けて、リスニングルームで為三さんのいろんな曲を聴かせてもらう。童謡だけでなく、クラシカルな歌曲、輪唱曲、ピアノ独奏曲、歌のないオーケストラ編成の器楽曲、さらに民謡を近代風にアレンジしたものまで、実に幅広い。

20代の時点ですでにたくさんの童謡を作曲した為三さん。その後大正10年から4年間、ドイツに留学して音楽理論をさらに深めることになる。帰国したあとに作られた楽曲は、そういった童謡とは正反対の大人のための音楽も多かった。さらに「和声」「作曲法」「対位法たいいほう」などの理論書を多く出版し、西洋音楽を日本に広めようと尽力に尽力を重ねる。

けれども世間は為三さんのことを「童謡の作曲家」と捉え続けていて、本人はジレンマを感じることが多かったそうだ。前回歌った「浜辺の歌」が当時のラジオから流れたときも、「早く終わればいいのに」と弟子につぶやいたのだとか。でも、自分の思惑とは違う一面でまわりから評価されることって、作り手ならみんな一度は経験していることだと思う。それは僕も含めて。

そんな為三さんでも、本当はいつでも子どもたちのことを一番に考えていたのではないかな、と思えることがある。ドイツで何よりも真剣に学んだのは、「カノン(対位法)」という技法。例えば「輪唱」もそのひとつで、主旋律をひとつのパートだけが歌うのではなく、別のパートも追いかけっこをするように後から付いていく。もしくは主旋律に負けないほど主張のある別の旋律を、別のパートが同時に歌うことで、振れ幅の大きなハーモニーを作る。

まるでいくつもの飛行機が、飛行機雲をお互いにぶつけ合いながら彼方へと飛んでいくように、一聴すると自由でのびのびとした音楽だけど、かなり綿密な計算が必要な技法でもある。そんな対位法を巧みに使った歌唱スタイルは、学校の合唱コンクールなどで歌われる多くの楽曲にも生かされている。子どもたちに対して童謡だけでなく、こういった違うアプローチからも貢献した為三さん。すごい。

さまざまな角度から音楽に向き合い、生涯で300曲あまりを作曲したと言われている。しかし残念なことに、昭和20年の東京大空襲で、自宅にあった自作曲の楽譜がすべて焼かれてしまったそうだ。今、僕らが聴くことのできる曲の何倍もの量を、実はコツコツと書きためていた為三さん。さらに同年10月、それまで疎開先として帰郷していた秋田から再び上京するやいなや、その2日後に亡くなってしまった。

晩年を過ごした東京・滝野川(今の北区)の自宅からは、毎日のようにピアノの音が聴こえていたのだそうだ。為三さん、僕はもっともっと為三さんの曲を歌ってみたいな。どうか伴奏をお願いします。

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