文・鈴木いづみ 写真・高橋希
鈴木いづみ/岩手県一戸町出身・盛岡市在住。30代半ばでいきなりライターになり8年目。「北東北エリアマガジンrakra」をはじめとする雑誌、フリーペーパー、企業や学校のパンフレットまで幅広く(来るもの拒まず)活動中。
「海鼠釉」の深い青色が印象的な「白岩焼」は、今からおよそ240年前、秋田藩初の窯元として生まれました。今も秋田を代表する工芸品のひとつですが、実は一度姿を消し、70年もの空白の時代がありました。藩の重要な産業だったという白岩焼は、なぜ消滅し、どのように復活を遂げたのか? その謎を追って、現在唯一の白岩焼窯元がある、仙北市角館町を訪ねました。
秋田県東部に位置する仙北市角館町。秋田藩の要所として栄え、今も残る武家屋敷の街並みは「みちのく小京都」とも称されています。白岩焼が生まれたのは、その角館町の東に位置する白岩地区。周囲を山に囲まれ、田んぼと杉林に守られるように家々が点在する、どこか懐かしい風景が広がる場所です。
この小さな集落の一角にあるのが、現在唯一の白岩焼窯元である「和兵衛窯」。この工房の2代目として制作に取り組む渡邊葵さんが出迎えてくれました。
- 鈴木
- 白岩焼って、窯元としては秋田最古だと聞きました。
- 渡邊
- はい、始まりは江戸時代中期と言われています。創始者は松本運七という方で、今も福島県でつくられている「大堀相馬焼」の関係者でした。当時秋田藩では鉱山の採掘が盛んで、鉱物の精製時に使う陶製の耐熱容器「ルツボ」を作る技術者として呼ばれたようです。
- 鈴木
- 鉱山にも、焼き物の技術が用いられてたんですね。
- 渡邊
- 運七は、その任務が終わった後も秋田に残り、今度は自分の窯を開こうと、陶土を求めて秋田の各地を転々としたそうです。そのうちに白岩の土が焼き物に向いていることを発見し、ここで焼き物を始めました。
- 鈴木
- そうして、白岩に技術が根付いていったと。
- 渡邊
- はい。村の人たちが弟子入りして技を学び、最盛期には6つの窯で白岩焼が作られていました。その技術は当時珍しいものだったので、角館のお役人は「この技術を外に漏らしてはならない」という「他言無用」の証文を、村の人たちに書かせたりしたようです。
- 鈴木
- へえ〜! それほどまで、大事な産業だったんですね。
- 渡邊
- 藩の特産品にしたかったんだと思います。
- 鈴木
- 最盛期には6つの窯があったとのことですが、窯ごとの違いはあるんですか?
- 渡邊
- 白岩焼の製品は、藩への献上品から庶民の日常品まで多種多様に幅広いのが特徴で、窯ごとに作るものが違っていたようですね。藩の特産品だったどぶろくの貯蔵容器は、ほとんどの窯で作っていたらしいですけど。
- 鈴木
- それだけどぶろくの容器の需要があったということでしょうか。酒どころの秋田らしいですねえ。
- 渡邊
- それともうひとつ、白岩焼の珍しい特徴があって。製品に窯元の印のほか陶工個人の印が入っているものがあるんです。(棚から本を取り出す)これは「白岩焼について書かれた古い本なんですが、こんな風に。
- 鈴木
- ああ、これですね。この「ニ」や「ハ」の文字はどういう意味があるんですか?
- 渡邊
- 窯の名前です。白岩焼は「イロハ」順で名前がつけられていたみたいで。たとえば、この「ハ松」という刻印は「ハ窯」の「松さん」という人が作ったもの。こんな風に、個人の名を刻んだ陶器は、当時としてはすごく珍しいと思います。
- 鈴木
- アーティスト気質というか……我が強いというか?
- 渡邊
- 秋田の人は、あんまり前に出るタイプじゃないと思うんですが、この時代の白岩焼の陶工さんたちは「俺が、俺が」っていうタイプだったみたいですね(笑)
- 鈴木
- 藩の特産品だっていう自負もあるだろうし、窯同士、陶工同士で切磋琢磨したんだろうなあ。作品に名前を入れるってことは、それだけの自信や覚悟があってのことですものね。
- 渡邊
- 特にこの「ニ窯の瀧さん」は、当時スーパースターだったみたいです。現在もコレクターの間でも人気で、「ニ瀧」の刻印がついているものは高値がついたりするようですよ。
- 鈴木
- へえ〜、おもしろいなあ。
- 鈴木
- そうやって、藩のサポートや陶工さんたちの切磋琢磨で発展した白岩焼ですが、一度消滅してしまったんですよね。
- 渡邊
- そうなんです。明治の終わり、1900年頃には全ての窯元が廃業してしまいました。
- 鈴木
- それはどうしてですか?
- 渡邊
- 廃藩置県で藩の後ろ盾がなくなったことや、他の地域の焼き物が流入してきて競争が激しくなったこともあり、徐々に衰退していったようです。
- 鈴木
- なるほど、明治維新で環境ががらっと変わってしまったと。
- 渡邊
- そうして廃業する窯が増えてきたところに、大きな地震(1896年の陸羽地震)が起きて、白岩焼のすべての窯が壊滅的な被害を受けてしまいました。
- 鈴木
- 弱っているところに、とどめをさされた感じですね……。
- 渡邊
- はい。大変なことが重なって「もうやんた(もういやだ)」ってなったのかもしれません。
- 鈴木
- そうして消えてしまった白岩焼を復活させたのが、こちらの和兵衛窯さんなんですね。
- 渡邊
- はい。私の母が窯元のひとりの末裔で、岩手大学の特設美術科(当時)在学中に「白岩焼を復活させたい」と、思ったそうなんです。卒業後の1975年に母の実家の屋号をとって「和兵衛窯」を開き、その後大学の同窓だった父と結婚して、2人で白岩焼の制作に取り組んできました
- 鈴木
- 白岩焼の消滅から復活まで、70年ぐらいのブランクがあったんですね。その間、焼き物の技術は継承されてきたんですか?
- 渡邊
- いえ、全然。他言無用だったこともあり、文献もほとんど残っていないんです。
- 鈴木
- え〜! それなのに、どうしてやろうと思ったんだろう?
- 渡邊
- 私も同じことを思いました。20歳そこそこの女の子が、焼き物をやるなんて当時は珍しかったはずだし、どうして? って。でも母に聞いたら「なんとなく」っていう返事でした(笑)。
- 鈴木
- なんとなく、かあ(笑)。でも、若い女性が一度途絶えた伝統工芸を復活させるって、すごいですよねえ。
- 渡邊
- 当時の秋田県知事が古い白岩焼のコレクターだったり、母の父が角館町(当時)の議会議員を務めていたこともあり、大学在学中から白岩焼の復興を応援してもらえる環境ではあったようです。
- 鈴木
- そういうバックアップがあったとはいえ、肝心の技術の継承はされていなかったんですよね……。
- 渡邊
- はい。実は、白岩焼の特徴でもある青い釉薬も、安定してきたのはここ20年ぐらい。それまでの20数年間は、材料や配合を変えたり、窯の焚き方を変えたり、あらゆる角度から試行錯誤を繰り返したみたいです。
- 鈴木
- 20年もの間、手探りで続けてきたなんて……。考えただけで気が遠くなりそう。
- 渡邊
- 手がかりになりそうなのは、刻印の話のときにお見せしたこの本ぐらいで。でも白岩焼の技術的なことは何も書かれていないんです。当時の陶工さんが京都などで修行して学んだ内容は、調合まで細かく残っていたりするんですけど……。
- 鈴木
- 肝心の白岩焼については載っていない、と。
- 渡邊
- 新しく得た技術は記録として残したけど「白岩焼は俺たちわかってるし、別に残さなくていいや」って感じだったのかも(笑)。
- 鈴木
- まさか、白岩焼が消滅するなんて、思ってなかったんでしょうねえ。それにしてもこの本、手がかりが少ないとはいえ、だいぶ読み込んだんでしょうね、付箋がいっぱい付いてる。
- 渡邊
- これは父が。ヒントになりそうなところに印をつけていたようです。あとは、実存する白岩焼を本当によく観察したと言っていました。
- 鈴木
- そうした努力のかいがあって、20年ぐらい前から釉薬が安定してきた、と。
- 渡邊
- はい。海鼠釉独特の青を出すために、釉薬の配合や材料などいろいろ試してきたようですが、今はあきたこまちの籾の灰を入れた釉薬で落ち着いています。
- 鈴木
- へえ〜! あきたこまち!
- 渡邊
- お米の籾って、ガラスの成分でもあるケイ素が含まれているんですが、窯焚き中の窯の中で白岩の赤土の鉄分と科学反応を起こして、あの青い色になるんです。
- 鈴木
- 不思議だなあ。よくそれを突き止めましたね!
- 渡邊
- 父が、あるとき「あ、米だな」ってひらめいたみたいで。
- 鈴木
- え、ひらめき?
- 渡邊
- もちろん、それまでの試行錯誤の蓄積があってこそだと思います。まあでも、江戸時代もお米の籾殻を使っていたのかは、知るよしもないんですよね。
- 鈴木
- 謎のまま、かあ……。
- 渡邊
- でも秋田は昔から米どころだし、そうだった可能性はあるかなと思っています。
葵さんから伺った白岩焼のさまざまなエピソード。山あり谷あり、ドラマありで「へえ〜!」を連発してしまいました。けれどこれはまだまだ序の口。次は白岩焼が作られる現場を見てみたいと、作業場を案内してもらうことにしました。