


編集・文:矢吹史子 写真:高橋希、上小阿仁村教育委員会
90年見続けてきた人に聞く、八木沢番楽。
2019.11.20
上小阿仁村八木沢集落に継承されている伝統芸能「八木沢番楽」。
番楽とは、秋田と山形のいくつかの地域に伝わる山伏神楽の一つ。太鼓、笛などの伴奏に合わせ、数種類ある演目を順番に舞うことで、悪霊を払い、天下太平、五穀豊穣を祈願するといわれています。
地域によって、節や踊りは異なるものの、その多くが、お盆から秋にかけて行われ、番楽の日には集落の集会所などに舞台が設けられ、子どもから大人までが酒や食べ物を持参して集まり、演技を楽しみます。

「八木沢番楽」もその一つで、200年以上の歴史があるといわれていますが、第二次世界大戦の際に演じ手不足のために一時中断。その後復活を遂げ、1982年には村の無形民俗文化財に指定されますが、1989年頃、後継者不足によりふたたび途絶えてしまいます。
しかし、そこから20年経った2010年頃に再度復活。その後は上小阿仁小、中学校の生徒たちによって継承されています。

今回は、この八木沢番楽について、八木沢番楽保存会会長の佐藤敏雄さんにお話を伺います。佐藤さんは現在94歳。子どもの頃からこれまで見続けてきた八木沢番楽とは、どんなものなのでしょうか。
——佐藤さんは、何歳から番楽を始められたんですか?
佐藤さん- 八木沢集落には「若勢」というのがあって、16歳になれば加入するんだ。16歳がら42歳まで、集落の男は必ず入らねばねぇごどになってあった。そして、集落の行事だどがをやるってば、その若勢だぢが率先してやってきたんだ。
そのうぢの一つどして番楽も運営してだ。番楽にもそごがら入ったんだ。
——では、16歳になってから番楽を覚えた?
佐藤さん- いや、小学校に通ってる時代がらすでに覚えでだ。八木沢番楽は、お盆の8月14日に毎年やるんだ。その日やるどって半年ぐらい前がら毎晩、神社の境内さ行って練習するんだ。一日の仕事を終えで、帰ってきて、ごはん食べればすぐに番楽の練習やったんだ。毎晩だ。

佐藤さん- そして、子ども時代には、今みたいに娯楽なんてなんもねがったがら、子どもだぢはその練習を毎晩見に行ったんだ。だがら、学校さ通ってるうぢにすでに番楽のリズムだどが踊りだどがを覚えでだ。
だがら、いざ16歳になって若勢さ加入してがら「番楽やってみれ」って言われでも、そんたに無理なごどやらねっても自然に覚えるんだ。早ぐ言えば、習わねぇってもすでに覚えでだんだ。

——子どもの頃は「早くやってみたい」と憧れていたものですか?
佐藤さん- やっぱり、子どものどぎはやってみてぇっていう気持ちはあったがもしれねぇな。
若勢さ入れば、師匠格の人がだがいで、最初に一人ずづに「何々舞を踊ってみれ」って、やらへでみる。その踊り方を見だ上で、その人に合った舞を覚えでる師匠に付いで専門に教わっていぐんだ。
——その当時は、番楽をやる人は集落にたくさんいたんですか?
佐藤さん- そのころは20人もいだがな。若勢だげでも30人近ぐいだがら。これは、番楽の本だ。(北秋田市の)根子集落がらもらってきた。

——歌詞が書いてありますね。
佐藤さん- 根子番楽ど八木沢番楽は元が一緒。元々は、おらほ(八木沢)だげのものではねぇんだ。

佐藤さん- 根子は根子でやってきてるし、八木沢も八木沢でずっと続げできたわげだ。だがら、同じどごろがら始まったもんでも、100年200年の中で、教える人も習う人も何十人も変わってる。
せば、なんぼそのまま教える気になっても、そのまま習う気になっても、やっぱり人っていうのは生まれながらに個性があるために、どごが違ってくるんだ。

佐藤さん- 最近はあちこちで郷土芸能を守るどって、一つの場所で発表会なんかをやるようになった。今までだば、そういうごどもながったために、根子の番楽もおらほの番楽も、たいした変わりねぇべど思ってあったけども、集まって踊ってみれば、まるっきり違うんだよ。
——八木沢番楽は、何度か途絶えながらも、10年ほど前に復活したとのこと。
佐藤さん- (上小阿仁小、中学校の)校長先生がら「地元の伝統のものをねぐしてぐねぇがら、(なくしたくないから)子どもらさ教えでけねぇが?」って言われで始めだんだ。

佐藤さん- さっきも喋ったとおり、昔、こごの集落でやっていだ頃だば毎年やるがら、子どもがだはそれ以前に何回も見で覚えでいるために、教えるのも楽であったんだよ。
んだども今、番楽を見だごども聞いだごどもない子どもださ教えれったって、よいでねぇ(大変だ)。

佐藤さん- そして、学校の余暇の時間を利用して教えるために、時間がねぇべよ。1回でせいぜい30分かそこらで、週に何回かだがら、昔と比べれば十分に練習はでぎねんだ。
——それでも、みんな踊れるようになった?
佐藤さん- まず、なんとがかんとが。でも本来、番楽の舞は何種類もあるなや(元々は24演目といわれている)。それを全部教えでる余裕も時間もねぇ。
だがら、一番最初に覚える「露祓い」っていうのど、もう一つ「鞍馬」どいう演目、今の子だぢに教えるってば、それで手一杯。

佐藤さん- でも、高学年の子だぢに、1年か2年かげて教えで踊れるようになっても、卒業すればみんないなぐなってしまうんだ。そして、また新しい子どもだぢが入ってきて、一がら教え始める。へば、いっつも同じごどしてねぇばね。「露払い」ど「鞍馬」以外の踊り教えるったって、そういう余裕がねぇのや。
——最近は、先輩から後輩へ、子どもたち同士で教え合っていると聞きました。
佐藤さん- 一緒に教えでも、覚えやすい子もいるし、時間のかがる子もいる。そのうぢの上手なやづが先になって教えでるがもしれねぇけど、上手なつもりの子だって、我々がら見ればまだまだ教えられるほどではない。でも、仕方ねぇ。今はそれよりやる方法ねぇもの。

佐藤さん- 昔だば、集落に踊る人がみんな揃ってあったもんだ。だがら、練習するにも、号令かげればすぐでぎであったんだ。
でも、今現在やるってば、教える人も、俺以外は秋田市どが他の町村にいるために、簡単にはできねぇ。子どもだぢを集めるのにも、親さ話して、了承を得で、上小阿仁全体がら一人、二人ど、子どもだぢどご借りでこねぇばでぎねぇんだ。
やっぱり今は、世の中も変わったし、昔のような状態ではねぇ。何やるったって簡単なごどではねぇんだ。

時代の変化にともなって、伝統文化の継承の形が変わっていくのは逃れられないことであり、かつてよりも厳しい状況のようです。 しかし、継承の原動力となるのは、いつの時代も、その文化への憧れや関わる人の熱量、その土地への愛情であり、それは、変わらないことなのかもしれません。その原動力をどう生み出していくか、どう持続させていくかを問われているように感じました。