秋田のいいとこ 旅で出会った、ローカルスタンダード

編集、文:矢吹史子 写真:船橋陽馬

陽気な母さんたちの、涙と光。

2021.03.17

大館おおだて市にある「陽気な母さんの店」。ここでは、農産物の直売を中心に、宅配、食堂、加工、体験工房、農家民宿など、幅広い業務を行っています。

その名のとおり、スタッフの大半は地元のお母さんたち。その活気ある店の雰囲気からも「陽気」という言葉がぴったりなのですが、じつは、この店の背景には、大館の農家のお母さんたちが向き合ってきた現実と、それに立ち向かってきた日々がありました。

3代目代表の石垣一子いしがきかずこさんにお話を伺います。

泣かない嫁になりたい

石垣さん
石垣さん
陽気な母さんの店は、2021年の4月29日でオープンして21年目になるんですが、ここを立ち上げようとしていた40代のころ、私は、子どもに農業を継いでほしいなと思っていて、それならば、息子や娘に給料を払えるような農業経営をしなければならないと思っていたんです。
というのも、それまでの農家は、「家業」であっても「職業」ではなかったような気がするんです。

——石垣さんは、農家のお生まれなんですか?

石垣さん
石垣さん
はい。私はずっと専業農家に嫁ぎたいと思っていたんですよ。

——それはどうして?

石垣さん
石垣さん
うちの実家が「三ちゃん農業」でね。

——「三ちゃん」というのは?

石垣さん
石垣さん
おばあちゃん、おじいちゃん、母ちゃんのこと。

——家長は外に勤めている、兼業農家ということですか?

石垣さん
石垣さん
そうですね。私はそういう農業はやりたくなかったんです。あまりに厳しくて。
うちは田んぼや畑のほかに牛や馬もいたんですが、ある日、母さんの仕事を手伝っていたとき、母さんが泣きながら「苦しい」って言っているのを聞いたことがあったんです。

その一方で、日曜日に父も含めて家族全員で農業をやるときの母さんの笑顔が忘れられなかった。
石垣さん
石垣さん
だから私は「泣かない嫁になりたい」「家族揃ってやれる農業をしたい」という夢を持っていたんです。
幸い、専業農家に嫁ぐことができて、30代のころからは、地元に伝わる「中山そば」の会を立ち上げて手打ちそばの加工もやるようになりました。
石垣さん
石垣さん
それをやっていくうちに、そば加工を通年できるような場所を持って、消費拡大に繋げられないかと考えるようになったんですね。同時に、農業をやっているなかで、消費者と生産者というのは、その間に深い溝があることも気になってきたんです。

——深い溝?

石垣さん
石垣さん
生産者は、消費者がどんな思いで食べているか、何を望んでいるかを受け止めることができないまま、農協や県の指導だけをもとに作物を作ってきた。
消費者の方々も、生産者側から見ると、テレビやラジオなど情報を収集する場所はいっぱいあるけれど、農作物については「無農薬は安全だ」という認識しかないように見える。
石垣さん
石垣さん
その開いた溝を埋めたいと思ったんです。お互いを理解し合って食べてもらうために、農業の情報発信や、作り手の思いを伝える基地がほしい。そこで、常設直売所を立ち上げるという運動を始めたんですね。

100対7の涙

石垣さん
石垣さん
平成9年ころから動き出して、地元の農家の女性たちと小さなところから組織づくりをして、市議と語る会、県議と語る会、市長と語る会などを開催して「いま、大館の母さんがたはこんなことを思っているんだよ」ということを伝えていきました。
石垣さん
石垣さん
そして、3年かけて、自分たちが何をやりたいのか気持ちを固めて、勉強もして「ここが成功すればきっとうまくいく」というハードルをいくつも乗り越えながら、100名の女性たちと「直売所を始めたい」という要望書を市議会に挙げたんです。

——100名!すごい数ですね。

石垣さん
石垣さん
でも、公的資金の導入はできなかった。私たち100名の女性の要望書に対して、7名の男性からの反対陳情が挙がったんです。

100対7でも、当時の農村では、女性の声はまだまだ届かない、小さいものだったんでしょうね。
泣きながらみんなに報告しました。申し訳ない気持ちでいっぱいだったんですが、みんな「ここまでやってきたんだから、どこまでもついていくよ」って言ってくれました。

——みなさんのなかにも当時の農業をどうにかしなければという強い思いがあったのでしょうか?

石垣さん
石垣さん
みんなギリギリだったんですよ。旦那さんは勤めに出ていて、農業は母さんの仕事という家も多くて、農業では暮らしができないと思っている矢先だった。
メンバーのなかには「あまりに辛くて、このままでは、家出をするか、離婚するか」というところまで追い詰められていた人もいたと聞いています。

——そこまで……。

石垣さん
石垣さん
そして、このままいけば、農家の女性たちは、ただ畑と家を往復するだけ。自分が何なのかも、女性の立場が何なのかもわからない。
子どもたちもみんな地元を離れていって、この状況で農業を続けるか、辞めるかっていう瀬戸際になってきてあった。

——石垣さんのご家族は、この状況をどんなふうに思われていたのでしょう?

石垣さん
石垣さん
要望が通らなかったときは、本当に、家族には申し訳ないという気持ちになりましたね。世間の風当たりもとても厳しかった。でも、お父さん(ご主人)はこう言ってくれたんです。
「国道添いに農地があるような、条件が揃っている人だけが直売ができるのではなくて、ない人はどこかを借りてみんなでやっていく。それで収入を上げたいという思いは決して間違っていない。あなたが頑張るなら応援する」って。
石垣さん
石垣さん
それで、決めたんです。「陰では何を言われようが聞かないようにする。正面切って言われたことにだけ、しっかり返答できるようにしていこう」「誰にも認められなくてもいい。自分は今、後継者を育てなければいけなくて、この活動は自分や石垣家にとって必要なんだ。まわりが全員反対しても、家族が認めてくれればそれでいい」って。

「よし、苦労を背負っても、やるぞ」と再出発したのが、平成12年の9月。結果、リースという形でこの店を建ててもらえることになり、平成13年にオープンしましたが、料金は月数十万円。
農業一筋で、レジなんて打ったこともない、帳簿なんてつけたことのない母さんたちが、1つ100円くらいの野菜を売りながらそれを払っていくという、大変なことに立ち向かうことになりました。

——最初は何人から始められたんですか?

石垣さん
石垣さん
88人の会員からスタートしました。初年度の平成13年度は1億円の売り上げを目指していたんですが、結果、1億1000万円に。そこからこれまで、順調に、ずっと右肩上がりで続いて、平成18年には2億を突破しました。
ここを始めたとき「もって1〜2年だろう」って、周りからは後ろ指を指されていたんです。それでも20年続けてこられた。

日本の女性はずるい?

——そもそも、なぜ女性中心の店にされたんでしょうか?

石垣さん
石垣さん
平成8年に2週間ほど、秋田県の女性農業士の仲間たちとイギリス、ドイツ、スイスへツーリズムの勉強をしに行ってきたんですね。
そのなかで、イギリスの農業普及所を訪ねたときに「日本の女性はずるい」って言われたんです。

——「ずるい」というのは?

石垣さん
石垣さん
「男性のあとを3歩下がって、影も踏まないくらい奉っているけれど、陰ではちゃんと自分のやるべきことをやっている。でも、肩を並べていないがために、責任を持っていない。パートナーシップ、男女平等という言葉があるけれども、実際のパートナーにはなっていないということ。もっと責任を持ちなさい」と言われたんです。

——支えているように見せて、いざとなったら甘えられる、逃げられる場を作っている……そういうところは私もあるかもしれません。

石垣さん
石垣さん
金槌で頭をガンガン叩かれたように感じて、眠っていたのが起こされたような気持ちになりました。それで、「よし、やろう」って思えるようになったんです。

——実際、店が形になってみて、気持ちの変化はありましたか?

石垣さん
石垣さん
ここができたことで「自分」というものが明確化されたと思っています。「女は家さいて黙ってれ」ではなくて、女性の地位をしっかり「個」として認められるようになった。

それまで、私は、家の屋号が「助作すけさく」なので、「助作の嫁」と呼ばれ続けていたし、家では「おい」で、「石垣一子」とは呼ばれることはなかったんですよね。でも、体験教室なんかをやると、名前で呼ばれたり、「先生」とまで言われたりする。
お金儲けも必要だけれど、そういうことが何よりも私たちの栄養剤になるんですよね。
体験工房では、地元の学校や修学旅行生などがきりたんぽづくりなどの体験をしたり、主婦層に向けたおすすめ品を使った料理教室などを行い、交流人口を増やしていっている。その数、年間約200組。
石垣さん
石垣さん
それに、男の見方と女の見方って、ちょっと角度が違うんです。これからの時代は、それをすり合わせていくことが必要なんじゃないかなって思うんです。

ここを成功させたことが全ての要因ではないかもしれませんが、農協の理事とか、県の審議委員とか、農業委員の代表とか、大館市でも女性登用が多くなってきたようにも思えます。

あたらしい風を吹かせたい

——それでも、20年経っても日本はまだまだ女性は軽視されているように感じることは多いですし、秋田での農業の厳しさは年々深刻になっているように感じます。

石垣さん
石垣さん
だからこそ、続けていきたい。平成27年には法人化して株式会社になりました。法人化したのは、あまりにも会員が高齢化したから。力強い組織づくりをしていかないといけないと思ったんです。

——それは、後継者を作っていくために?

石垣さん
石垣さん
はい。この組織をどういうふうにしていきたい?って聞いてみたときに、「自分たちはいずれは去っていくだろう。でも、孫たちに『この店は、おばあちゃんがたが立ち上げたんだよ』って言いたい。そういうふうに残っていくものにしたい」って、みなさんが言うんですよね。
法人化してからは、会員だった人は株主となり、現在62名。立ち上げ当初から、毎月全員が集まる総会を開き、総務部、販売部、環境部、食堂加工部に分かれた各部門からの報告や提案を行ってきている。
石垣さん
石垣さん
なので、私たちが立ち上げたから私たちで完結するのではなくて、次代の人たちに譲れるような「あそこの会員になりたい」と思ってもらえるような組織にしようと考えています。

——実際、若い世代は入ってきているんでしょうか?

石垣さん
石垣さん
じつはまだまだです。代表も2年交代のはずが、しばらく私がやっていて、6年くらい前から交代する意思を伝えているんですが、なかなか次の人が出てこない。若い人にお願いしても「できない」って言われてしまうんですよね。

——石垣さんの存在が大きすぎるのでしょうか?

石垣さん
石垣さん
「あの人がやったから、自分もこうやらなければ」ではないと思うんです。それは望んでいない。今までやってきたことは、いいところは継続していけばいいけれど、その人なりのあたらしい風を吹かせたいんですよ。でないと時代遅れになってしまうでしょう。
石垣さん
石垣さん
あたらしい人が入れば、必ずあたらしい人につく応援団がいるんですよ。その風がほしいんです。「右向け右」じゃなくて「右向かないでまっすぐいきたい」っていう人がいてもいいと思うんです。

それにここには、誰が代表になっても支えられるような、素晴らしい従業員たちがいるんです。私のようなホジナシ(だらしない人)でもやれているのは、みんな従業員のおかげなんです。だから、絶対大丈夫なのに……。
石垣さん
石垣さん
前に立つ人は、夢を見れればいいだけだと思うんです。そして、「この夢って、この店のためになるか?ならないか?」っていうことを仲間たちと一緒に考えていく。

そして、「自分はここまでできるけど、あなたにここをお願いできないか?」と周りに託していく。これは、うちだけで完結しなくてもいいと思うんです。市や県や外の取り組みの力を借りたりしながら、それぞれが自分の力をどこまで発揮するか。そうやっていけば、確実に、一歩ずつ進められるんです。

——チームでやっていくことで形にしてきたんですね。

石垣さん
石垣さん
そして、ここでやっていきたいのは、「ただ、お金を稼ぐ」ということではないんですよね。自分を磨きたい、光るものを持ちたいと思って成長していくことが、これからを生きていくための、農業をずっとやっていくための力になっていくと思っています。

【陽気な母さんの店】
〈住所〉大館市曲田家ノ後97−1

〈TEL〉0186-52-3800
〈HP〉http://yoki-kasan.com/