

留学先のオーストラリアで、さまざまなプロスポーツが生活に根ざしていることに感銘を受け「秋田にもプロスポーツ文化をつくりたい」と思い始めた水野社長。プロのクラブチームがひとつもなかった秋田にノーザンハピネッツを誕生させるまで、どんな道のりを歩んできたのでしょうか。

- 鈴木
- 「バスケットボール」というのは、最初から頭にあったのですか?
- 水野
- 秋田でチームを立ち上げるとしたら、どのスポーツがいちばん可能性あるかな、と考えたとき、やっぱりバスケットだろう、と。高校バスケでいえば、能代工業高校は最多記録である58 回の全国制覇を成し遂げていますし、社会人チームでも「秋田いすゞ」が天皇杯で日本一になっている。「秋田はバスケ王国だ」と謳っても他から文句が出ないぐらいの実績を持っていますから。
- 鈴木
- 確かに、秋田はバスケが強いっていうイメージありますね。
- 水野
- ちょうどチームの立ち上げを考え始めた頃、日本ではプロバスケットリーグの「※bjリーグ」がスタートしたばかりでした。そこでは、Jリーグと同じく「地域密着」と「スポーツエンターテインメント」をコンセンプトとして掲げていたんです。それが日本では非常に新しいというか、アメリカやオーストラリアで見てきたプロスポーツのイメージに近いなと。「これはすごい可能性があるんじゃないか」と感じたんです。
※2016年、国内トップリーグの統一を目的に「Bリーグ」に統合

- 鈴木
- 当時、bjリーグの規模はどのぐらいだったんでしょう?
- 水野
- bjリーグは2005年に6チームでスタートし、これからさらにチーム数を増やしていく、というところでした。しかもリーグへの参入は公募制。「公募ならなんとかなるんじゃないか」と思ったんです。ちょうどその頃、湯沢市在住の人が同じようなことをブログで発信していて。
- 鈴木
- おお、秋田に同志が。
- 水野
- はい。オーストラリアでそのブログを見つけて「同じことを考えてる人がいる!」って感激して(笑)、手紙を出してコンタクトをとったんです。帰国して改めてその方にお会いして「ぜひ一緒にやりましょう」ということになりました。
- 鈴木
- 具体的に活動を始めたのはいつ頃からですか?
- 水野
- 2007年に、湯沢を拠点とした任意団体が立ち上がりました。当時の僕はまだ学生だったので、お手伝いという形でした。でもなかなか活動の輪が広がらず、そのうち湯沢の方がいろんな事情で活動を続けられなくなってしまったんです。
- 鈴木
- そうだったんですね。
- 水野
- だけど「もう一回チャレンジしよう」と、僕と、いま専務取締役を務めている高畠靖明で秋田市に拠点を移し「秋田プロバスケットボールチームをつくる会」を立ち上げました。それが2008年。僕は大学を卒業し、そのまま秋田に残って活動を続けました。最初はほんと、駅前に立って署名活動をするとか、草の根的な活動でしたね。全部手弁当だったから、貧乏生活でした。

- 鈴木
- 秋田って、バスケットが身近な土地柄だとは思うんですが、「プロチームをつくること」に対しては、どんな反応だったんですか?
- 水野
- まあ、いろんな反応があったと思います。応援してくれる人もいましたけど、「秋田じゃできっこないよ」っていう、ネガティブな意見の人も多かったですね。
- 鈴木
- そうでしょうねえ。
- 水野
- でも当時の僕は、否定されても「何を言っているんだろう?」って思っていました(笑)。できないわけがないでしょう、って。
- 鈴木
- へえ〜!
- 水野
- 「秋田ではできっこない」って言った人たちの中で、論理的に「できない理由」を説明した人は一人もいなかったんです。みんなイメージだけで「無理だ」と決め付けているというか。
- 鈴木
- ああ、なるほど。最初から諦めちゃっている。逆に水野さんには「できる理由」というか、確信があったんですか?

- 水野
- 当時、bjのチームの年間運営費用は1〜3億円と言われていたんですが、隣の山形県にあるサッカーJリーグ「モンテディオ山形」の運営費用は、当時で10億円ぐらい。その2〜3割の規模のクラブを秋田で運営できないはずがない、と考えていました。逆に、できなかったら秋田の経済は本当にやばいでしょ、って。
- 鈴木
- 1〜3億円って聞くと「そんなに!」と思っちゃいますけど、全体の規模で考えたらそうですね。とはいえ、人口も多くない秋田で署名活動や資金集めをすることは、決して簡単なことではないですよね。それでも「秋田にチームを」という思いは、どこから来ていたんですか?
- 水野
- 僕は東京出身だけど、縁があってこっちの大学に来て、いろんな人にお世話になったし、客観的に見て「みんなが夢中になれるものがあれば、秋田はもっとよくなる」という思いがありました。それに、僕からしたら秋田も日本の一部。他の地域にはあるのに「秋田だからできない」なんてことはないと考えていました。

- 鈴木
- クラブの設立に向けて活動するなかで「あ、これはいける」と感じた瞬間ってありましたか?
- 水野
- これはいけるな、と感じたのは「プレシーズンゲーム」ですね。秋田市に活動拠点を移した2008年に、資金を調達してbjリーグの試合を誘致したんです。リーグが掲げる「スポーツエンターテインメント」を、秋田のみんなに見てもらいたいと思ったので。

- 鈴木
- 自分が実現したいと思っていることを、まずは体感してもらおう、と。
- 水野
- はい。「仙台89ERS」と「新潟アルビレックスBB」の試合だったんですが、プロのプレーを見せるだけでなく演出にもこだわって。結果、会場の県立体育館に3000人ぐらいのお客さんが来てくれて、すごく盛り上がりました。
- 鈴木
- 3000人! それはすごい。
- 水野
- 本当にみんな楽しんでくれて「秋田の人たちは、こういうものを待ち望んでいるんだ」っていうのをすごく感じましたね。クラブに出資してくれる可能性がある方々もその会場に招待していたんですが、会場の盛り上がりを見てもらったことで出資が決まり、結果、いまの運営会社を立ち上げることができました。
こうして2009年1月30日、チームの運営母体となる「秋田プロバスケットボールクラブ株式会社(現・秋田ノーザンハピネッツ株式会社)」が設立。2010-2011シーズンからのbjリーグ参入が決まり、仙台に次いで東北2番目となるプロバスケットボールクラブ「秋田ノーザンハピネッツ」が誕生しました。チームカラーは、もちろんピンク!

- 鈴木
- そういえば、チームカラーがピンクって、ちょっと珍しいですよね。
- 水野
- そうですね(笑)。ノーザンハピネッツが参入したとき、bjリーグは13チームまで増えていて、そこと被らないようにと考えたらあまり色がなくて。その数少ない候補のうち、当時の秋田新幹線の車体の色とか、角館の桜とかをイメージしてピンクにしようと。当時はすごく揉めて「なんでピンクなんだ」って言われたし、クラブ名も「弱そうだ」って非難されました(笑)。でも浸透しちゃえばこっちのもんですね。結果、大正解だったと思います。

「イメージだけで『できるわけない』と否定する人がいた」というくだりに、ドキッとしました。根拠のない否定をして、自分や周りの可能性の芽を摘んでしまっていること、結構あるかもしれないなと。
「できないはずがない」を信じること、周りに共感してもらうこと。簡単なことではありませんが、水野社長をはじめ設立に関わった方々の「ブレない気持ち」があっていまのノーザンハピネッツがあるんだなあと、改めて思いました。
次回は「日本一熱い」と言われるブースターの「一体感」に迫っていきます。