2004年に82歳でお亡くなりになった秋田県にかほ市出身の木版画家、池田修三さん。
生前正当な評価を受けていたとは言い難い、修三作品が再注目されたのは、秋田県発のフリーマガジン『のんびり』がきっかけでした。
この度、約2年ぶりに東京での展覧会が開催されるにあたり、あらためて池田修三さんの素晴らしさを伝えるべく作品集の版元である、ナナロク社代表の村井光男さんと、本誌編集長の藤本智士の対談をお届けします。
- 1922年秋田県にかほ市象潟町生まれ。木版画家。秋田県内の高等学校美術科教諭を退職後、1955年に上京し版画に専念する。主テーマは子どもたちの情景で、晩年は風景画も手がける。作品は企業カレンダーや銀行の通帳、「広報きさかた」の表紙などにも使われる。2004年82歳で死去。http://www.shuzoikeda.jp
- 1974年兵庫県出身。編集者。有限会社Re:S代表。フリーマガジン『のんびり』、webマガジン『なんも大学』編集長。編集・原稿執筆を手がけた『ニッポンの嵐』は、発売4日で20万部を超える大ヒットを記録。著書に『ほんとうのニッポンに出会う旅』(リトルモア)『センチメンタルの青い旗』(ナナロク社)などがある。http://re-s.jp
- 1976年東京都出身。出版社ナナロク社代表。詩集、写真集を中心にさまざまな書籍を出版。川島小鳥写真集『未来ちゃん』などの大ヒット書籍をはじめ、新刊には、詩人・谷川俊太郎の『あたしとあなた』、『村上春樹とイラストレーター佐々木マキ、大橋歩、和田誠、安西水丸』などがある。http://www.nanarokusha.com
イラスト:CHO-CHAN
展覧会詳細はコチラ
- そもそもの話をすると、兵庫県に住んでいる僕のようなよそ者と、秋田在住のメンバーが一緒になって作ること自体がコンセプトの一つだった『のんびり』という、秋田県庁が発行するフリーマガジンがありまして、その3号目で「池田修三というたからもの」という特集を組ませてもらったんですね。
- はいはい。
- やっぱり地元の人って地元のことがあんまりよくわからないじゃないですか。
- そういうもんですよね。
- なので、僕たちよそ者の視点で「地元の人たちにとってはふつうかもしれへんけど、これ、おもろいやん!」って思ったものを「のんびり」では、テーマにしてきたわけです。そうやっていろいろ取り上げてきたんですが、その代表がこの「池田修三」という。
- 秋田の人たちにとってはふつうだったってことですよね。
- そうです。修三さんは、2004年に82歳で亡くなられているんですね。だから、秋田の人たちにとっては、みんな作品はなんとなく見覚えはある……ぐらいの。
- 記憶の片隅にあるかな? っていうくらいの。
- それは、秋田相互銀行の通帳に使われてたりとか、80年代、90年代に企業のカレンダーやらで使われてたっていうことで、秋田の人たちには刷り込まれている。だけど、誰かはわからない。
- みなさん、見覚えはあるから、全国区の作家さんだと思い込んでたんですよね。いわさきちひろさんとか、そういった著名な作家さんに並ぶ有名な方だと。
- そうそうそう。
- 池田修三さんって、『のんびり』で取り上げたときにはもう亡くなっていたし、なんで発見できたんだろう? って。結構すごいことですよね。
- 僕が秋田に来はじめたころによく泊めてもらっていた友だちの家に修三さんの絵があって。
- 「この人凄いなぁ」って思ったのがはじまりで。それでまわりに聞いてみると、いよいよみんな「うちにあります」とか「実家に飾ってました」とか言い出すわけですよ。
- すごいですよね。
- もっと言うと「結婚とか誕生日とか新築のお祝いに、絵をあげたり貰ったりしました」とか。こんなに絵を贈り合う文化、日本人にないじゃないですか、ふつう。
- 藤本さんは、もともとアートの展示とかをいろいろされてきたからこそ、なおさら思うんでしょうね。
- 20代のころにけっこう若いアーティストと展示をやったりしていたんですけど、それって結局、彼らの絵を買って欲しかったんですよね。だからあの手この手で絵を買ってもらおうと一生懸命がんばったけど、なかなかうまくいかなくて。
- すぐ投資みたいな世界になりますもんね。「有名になると値が上がる」みたいな。
- そうなんです。もっと単純に「無名だろうがなんだろうが、好きやと思ったら買う!」みたいなことを求めてた。でも現実は難しいと思っていたことが、秋田県のにかほ市という町の人たちのあいだでは、すでに叶っていたっていう。
- お祝いに、気持ちよくあげたりもらったりするっていう。
- それはすごいぞって、ひとり興奮してたわけですよ。自分のなかに高揚感があれば、それは必ず伝わっていく確信があるので、これは編集者としてやれるなって。
- それが『のんびり』の池田修三さん特集だったわけですね。
- そうです。で、かれこれ4年くらい修三さんのことをやり続けてる。そもそも『のんびり』自体、「1年で辞める」って公言してたぐらいなんです。「税金使ってダラダラやるもんじゃない」とか言って(笑)。
- で、『のんびり』も丸4年やられたんですよね。
- 『のんびり』もそこまで続けてきた大きいきっかけがやっぱり修三さんなんですよ。修三さんは1922年生まれなんですね。ということは2022年で生誕100年かって思ったとき、ちょうど『のんびり』で特集したのが2012年でしょ、だから10年後にこの町が池田修三さんを軸にしてどう変わってるだろうか? っていうことを想像しちゃったわけですよ。
- それで「10年後にはこの町に記念館があって、全国の人が修三さんの絵を見にこの町にやってくる。そういうのを一緒に作りましょうよ!」って地元のおじいさんおばあさんたちに話してた……。後々考えたら、じいさんばあさん、10年後生きてるか微妙やなあ〜と(笑)。
- しかも神戸から突然やって来た男がね(笑)。
- ほんまにそう。だからその時に、やっぱり1年2年のスパンでできることじゃないなっていう。初めてそういうロングスパンなものを自分の中で想定して「これはちょっと長く秋田と関わっていかないといけないかも」っていう覚悟を持ったんですよね。
- その時の周りのテンションっていうか、反応ってどうだったんですか?
- まぁ、ポカーンですよ。
- (笑)。
- なんか妙な関西人がやってきてワーって言ってるだけの話だから。なんにもならへん(笑)。でもだからこそ、結果を見せていかなきゃいけない。でもね『のんびり』で特集して、形になると、やっぱり地方の人たちは「すごい!」ってなってくれて。
- お手紙とかメールとかもたくさん来たんですよね。
- そうなんです。すると地元の人の反応もちょっと変わってくるわけですよ。ここでさらに地元の人たちの気持ちを上げていこうと思ったら、もういよいよ作品集を出版するしかない! って思ったわけです。
- 本になるってやっぱり大きなことじゃないですか。実際、出版って、とても大変なことなんだけど、その時の僕にとっては、もう作品集を作らないことには、10年先に向けてのスタートラインにすら立てないような気持ちで、だからとにかくなんとかしたいってことで村井さんに相談しに行った。
- 藤本さんには元々お世話になっていたので……。うちはだいたい持ちかけられた仕事は受けないっていう方針なんですね。自分たちが自ら出会うものしかやらないっていう。
だけど、藤本さんから「ちょっとお話があって……」って言われて。中身言わないんですよ(笑)。何かな〜って思って行ったら、そこでいきなり池田修三さんの『カナリヤ』の版画の実物を見せていただいて。もうこれはすごい作家に出会ったなと思ったことと、『のんびり』3号の原稿をちょっと見せていただいて、もうその熱に打たれて。とりあえず「わかりました、秋田に行きます」ってことでにかほ市に行ったら、怒濤のごとく関係者に会わされて(笑)。
- 外堀を埋めるように。
- 会うたびに「出版社のものです」って言ったら、流れ的に「池田修三さんの作品を本にしたいと思ってまして」って言っちゃう(笑)。半ゆでぐらいの状態からいきなりゆであがるみたいな(笑)。もう帰る時には「じゃあ、いつ出しましょうか」って。どんどん固まっていくっていう。
- もちろん「断れねぇだろう」って思ってやってるわけじゃないけど(笑)。村井さんはわかってくれると思ったんですよ。そこで「秋田行きます」って言ってくれる人なはずだと。そういうスピード感が欲しかった。でもナナロク社さんで出版を決めてもらった直後に2社から「うちから出したい」って言われたんですよ。
- よかったー。英断ですねー。
- なんだかんだで、おかげさまで増刷もできてね。「重版出来!」ですからね。
- ありがとうございます! もう一歩がんばれば、1万部っていうところなので、よろしくお願いします!