青木慶則のソロ変名ユニット。シンガーソングライターでありながら、CMや映画、演劇の音楽制作、歌唱、ナレーション等でも活躍。NHKみんなのうた「ウェイクアップ!パパ!」、Eテレ0655「きょうの選択」など、幅広い年齢層に響く歌声を持ち味としている。最新オリジナルアルバムは2015年の「ゴマサバと夕顔と空心菜」。2016年には同作をキャリア初のアナログレコードとして再リリースした。www.harcolate.com

日本で初めて、子どものための童謡を発表したのは、秋田出身の作曲家。このことを知っている人はどのくらいいるのだろう。僕も知らなかった。その人の名は成田なりた為三ためぞう。曲は「かなりや」。「うーたをわーすれった、かーなりーやーはー♪」。

さらにもっと有名な曲がこちら。「あしーた~はーま~べーぇーをー♪、さ~まーぁーよーえ~ばー♪」。「ー」はまっすぐ伸ばして、「~」は細かく動きながら伸ばす。少ない言葉に起伏のある複雑なメロディだけど、小学校の音楽の教科書には必ず載るような国民的な1曲となった。それが「浜辺の歌」。

僕にはどちらかというとこの曲がとくに強く心に残っていて。というのも、ピアノ教師であり声楽家でもあった母が、幼い頃によく歌ってくれた曲だったから。

成田為三さんは、どんな想いでこの「浜辺の歌」を作曲したのだろう…。そこで、為三さんの出身地である北秋田市を訪ねたり、いろんな秋田の「浜辺」を歩いてみることにした。

まずは北秋田市米内沢よないざわにある「浜辺の歌音楽館」へ。開館は昭和63年。大正ロマンを意識した六角形の建物で、1階はたくさんの作品が試聴できるリスニングルームが3つ、2階がおもな展示ブースとなっている。さまざまな資料が並ぶ室内の真ん中には、精巧な為三さんロボットが!

館内を案内してくれたのは、北秋田市教育委員会の細田昌史さん。いろいろな話をうかがう。

為三さんが生まれたのは明治26年。師範学校入学により音楽に目覚め、オルガンから始まり、朝から晩までピアノに熱中、さらに音楽にのめり込む。ほかにバイオリンやチェロも弾きこなしていたとのこと。卒業して1年間だけ地元の小学校へ赴任したのち、一念発起して上京。東京音楽学校(今の東京藝術大学)へ進む。そこでより本格的に音楽を学ぶことになったそう。

その東京音楽学校のなかで発行されていた雑誌に、はやし古渓こけいという漢文学者が書いた「はまべ」という詞が載っていた。それは「これに曲をつけてください」という前提で書かれたもの。その試みに為三さんも、いざ参戦。出来上がった曲のタイトルは、この時点ではまだ「はまべ」のままだった。

このときが大正4年か5年、為三さんが23歳の頃と言われていて、歌が生まれてから今年(2016年)はおよそ100年にあたる。実は「かなりや」よりも前に作られているのだけど、こちらは童謡ではなく「唱歌」と呼べばいいのだと思う。

冒頭にも書いたけれど、少ない言葉に、これだけ細かな動きと抑揚のあるメロディを付けた為三さん。開国して50年で入ってきた西洋音楽の教育と、先生として慕っていたドイツから帰国したばかりの作曲家・山田耕筰の教えを、全力で詰め込んだのがこの「浜辺の歌」なのではないかな、と僕は思う。

では、ここで僕の歌う「浜辺の歌」を聴いてもらいましょう。自宅にあるアップライトピアノを弾いてから、歌を重ねて録音したものがこちら。

あした浜辺をさまよえば
昔のことぞしのばるる
風の音よ 雲のさまよ
寄する波も 貝の色も

ゆうべ浜辺をもとおれば
昔の人ぞしのばるる
寄する波よ かえす波よ
月の色も 星のかげも

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この歌はやがて大正7年に、当時の絵描きとしてはスターでもあった竹久たけひさ夢二ゆめじの装丁で、「浜辺の歌」として楽譜が出版される。レコードもCDも(ついでに書くと音楽配信やYouTubeも)ない時代だから、大々的にメジャーデビューしたような形ではないか。その原点である「はまべ」の楽譜も展示されていた。為三さん自筆の楽譜はとても繊細な音符の描き方で、つい見とれてしまった。

一方、この歌の作詞をした林古渓という人は、幼い頃を神奈川県で過ごし、湘南にある辻堂つじどう海岸の浜辺がこの歌の原風景だと言われている。しかしそれを受けて、為三さんがどの浜辺をイメージして作曲したという証言は残っていない。でもやっぱり、ふるさとの秋田の海を思い浮かべたのではないかな。

そんなことを思って、秋田のいろんな浜辺を歩く。秋田市の風車の並ぶ浜辺を皮切りに、潟上かたがみ市の出戸浜でとはま男鹿おが市の五里合いりあいと、日本海を徐々に北上する形で。僕は秋田をこんなに広く旅するのは初めて。男鹿では「なまはげ館」などにも立ち寄った。

ちなみに歌詞の冒頭の「あした」とは、昔の言葉で「朝」を意味し、2番のやはり冒頭の「もとおれば」は「ぶらぶらと歩き回れば」に近いことを意味している。100年後の浜辺を「もとおる」僕と取材班一行。

ところで、「浜辺の歌音楽館」のそばにある米内沢駅の列車の到着を告げるメロディには、以前から「浜辺の歌」のメロディが使われている。音楽館を訪れた同じ日の夕暮れどき、下校する生徒さんを満載した2両編成の列車が近付いてきて、すかさず録音したものがこちら。

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そしてなんと今年の12月から、林古渓さんがかつて過ごした神奈川県の辻堂駅の発着メロディも「浜辺の歌」になるのだという。11月27日には北秋田市の子供たちによる「浜辺の歌音楽館少年少女合唱団」がはるばる駆けつけて、盛大なイベントも行われるとのこと!

これも「浜辺の歌」誕生100年のお祝いとして。秋田と神奈川、ふたつの浜辺が時を超えて繋がったような気がして、嬉しくなる。しかも僕は神奈川県出身で今も在住なので、なんだか余計に嬉しい。

こんな風にずっと歌い継がれていく歌を作れることって、同じく音楽に携わるものとしては、やっぱり永遠の憧れでもある。そんな為三さん、実はもっともっとたくさんの音楽を、未来の子どもにも大人にも向けて、残そうと努めていた。その続きは次回。おもに童謡に焦点を当てながら、為三さんのその後の生涯についても。

後編へつづく

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