国の伝統的工芸品に指定される、「大館曲げわっぱ」。伝統工芸品の世界、というと「師匠を見つけて弟子入りし、下積みを経て、満を持して独立」という世界を思い浮かべませんか? けれども、柴田慶信商店を創業した慶信さんの語りに、そんなこちらの「定型文」はあっさりと打ち砕かれたのでした。今回は、そんな創業のきっかけから、職人親子、慶信さんと二代目・昌正さんにお話をうかがいます。
- 高木
- 慶信さんは、なぜ曲げわっぱ作りに?
- 慶信
- もともと私は営林署の担当区に勤めていたんですよ。そのときに友だちが「曲物は儲からないようだけれども、かなり昔から行われてきた」っていう話をしていて。
- 高木
- はい。
- 慶信
- ただそれだけを聞いて、その気になったんです。
- 高木
- ……! 昔からずっと続いている曲物という存在に興味を持たれて、「儲からない」けど、それを自分の生業にしてみようと?
- 慶信
- はい。それで始める2年前から営林署に勤めながら秋田杉や綴じ用の桜の皮を集めたりと準備をしていきました。
- 高木
- やはり、どこかで修行されたり、曲げわっぱ作りを学ばれてから?
- 慶信
- なんも習わない。
- 高木
- えっ、そうなんですか?!
- 慶信
- 買ってきては壊してみて。
- 高木
- すごい。曲げわっぱを買ってきて、分解して学んで……完全に独学ですか。
- 慶信
- うん。そうです。
- 高木
- 大館曲げわっぱの中で、柴田さんの曲げわっぱは、それだとすぐに分かるのですが、その独自性はどうやって生まれていったんですか?
- 慶信
- 古いものを集めたからだな。
- 高木
- そうか。国内外のものを集めてらっしゃいますもんね(第1話参照)。
- 慶信
- そうそうそう。それが私の師匠っていってもいいくらい。百何十種類はあるんじゃないか。
- 高木
- それでいろんなものを目で見て分解して作ってこられたんですね。
- 高木
- そんな慶信さんをずっとそばで見ていらっしゃった昌正さんは、いつごろから継ごうと思われるように?
- 昌正
- 子どもの頃から遊び場は工場だったということもあったんだけども、でも当時はあんまり経済的にも豊かじゃなく……多分、苦しい方だったと思います。
- 高木
- う〜ん。
- 昌正
- 最初のころは曲げわっぱでは食べれないので、子どもの頃は父といっしょに山で山菜を採って朝市で売ったりして。
- 慶信
- 営林署にいて山を覚えでだがら、無駄でながったな(笑)。
- 昌正
- そういう感じで朝市に行って、また工場に来て、働いてっていう。その横で私は廃材とかで遊んでるわけですよ。で、そのときに、父が楽しそうに仕事していた。苦しそうではなかったんですよね。
- 高木
- あぁ、なるほど。
- 昌正
- 小さいころは物を作ることが楽しいので、この仕事は面白いんだろうなって。だから、幼いころからこの仕事を「俺、やる、やる」って。
- 高木
- そうなんですね! それはおいくつぐらいのとき?
- 慶信
- ほんとちっちゃいころ。小学校くらいかな。作業してるとこに寄ってきて「俺もやる」って泣いだりしてや(笑)。
- 高木
- そういえば、この前取材で聞いた話があって、今の若い人たちは、親から仕事は大変だから楽な仕事を選びなさいって言われるから、仕事は面白くなくて、ただ時間を費やしてお金を貰うだけのものだって思っちゃってるって。その根っこを変えないと経済的な観念も変わらないって。だから、「楽しくやっている」っていいですね。
- 昌正
- いや、実際のところ楽しんではいなかったかもしれないですよ。
朝ごはんの前にもう工場に行って働いてる。夜も夕飯食べてからまた遅くまで働いて。働かないと、物を作らないと生活が苦しかったんですね。
そこまで働いてるんですけど、まあ、物作ってるときはそんな嫌な顔せず楽しそうにしていました。母親も一緒に作っていて。
- 高木
- ああ、そうなんですね。
- 昌正
- 父が独学でこの仕事を始めるって時には、すでに子どもがいたんですよ。
- 高木
- えっ! 子どもを抱えて、安定していそうな営林署を辞めて!
- 慶信
- だがら止めるに止められなぐなったの。曲げがうまくいかなくて何度、家内とけんかしたか。へば(そしたら)、また家内がそれを持ってきて、「父さん、今度はこうやるべしよ」って。もう、やってやらなきゃなくなったの。
- 昌正
- その様子も見てましたね。
- 高木
- それでも、子どもの時から継ぐことを疑わずに。継ぐもんだというよりは、継ぎたいと?
- 昌正
- 継ぐもんだとか継ぎたいとかじゃなくて、それをやるっていう。
- 高木
- そうか。具体的に習い出したのはおいくつぐらいの時?
- 昌正
- 22歳で岩手の大学を卒業して、2年くらい新潟の会社に就職して、24歳のときに戻ってきました。 大学卒業してすぐ帰ってこようと思っていたら、「よそへ行って世間に揉まれてからじゃないと、すねかじりで終わってしまう」と言われて。
- 慶信
- 家内が、「帰ってくる前に、よそに使われたほうがいい」って。「違う仕事でも、そこには年寄りもいるだろうし色々あるから、何かが絶対学べるから」って。
- 高木
- それでいざ、始めてみてどうでしたか?
- 昌正
- ただね、父から習ったことはないんですよ。
- 高木
- えっ?
- 慶信
- こうやれって、しゃべったことはない。
- 昌正
- 帰ったらすぐ即戦力にならないといけないって思ってたので、父がやってるのを見よう見まねで始めて。「仕事に教わるから」が口癖でしたね。目の前のわっぱを作ってて失敗すれば、この曲げわっぱから教わる、と。
- 慶信
- なんも、教えようがないのよ。感覚のことは言葉にできないのよ。自分もな、何も知らないでやったがら、やって失敗して、「あ、こうだった」って。
- 高木
- 自分でなぜ失敗したんだろう? って考えるからこそ身につくものがある?
- 慶信
- うん。教えられたやづは、とても時間がかかる。
- 昌正
- その当時は思わなかったけど、いま従業員を抱えるようになって考えてみると、働いたから、イコール、お金が発生するという考え方では難しいんですよ。
- 高木
- 自分の時間の切り売りでお金をもらう、という考え方ですね。
- 昌正
- 曲げわっぱが、ちゃんとお客さんの手に渡ってはじめてお金が発生するんです。だからたとえ一生懸命働いても「“○時間”働いたから、“○円”もらえる」っていう考え方では厳しい。それでは、ただ仕事場で時間を過ごして帰るだけになってしまって工夫すべき点や改善点に気付けません。「売れて初めてお金が入る」という意識で働いている社員は、やっぱり自分なりに工夫して仕事しているんですね。
今の従業員への思いを語る昌正さんの隣で、「私は、社長を渡してからは、『こうやったほうがいい』っていうのは一切言わないのよ」と話す慶信さん。すでにその信頼はゆるぎないようです。
次回、職人親子のはなし後半は、二代目の昌正さんの思いに、さらに迫ります。