秋田の伝承学「マタギ」
  • ①先祖代々マタギ・70歳
  • ②マタギになった・25歳
  • ③マタギとクマの関係は今
  • ④カメラマン、マタギ・36歳
  • ⑤山よ、マタギよ

編集=竹内厚 写真=船橋陽馬

講師 船橋陽馬さん

④カメラマン、マタギ・36歳

移住してマタギになった

今回の撮影を担当している船橋陽馬さんは、カメラマンとして仕事をするかたわら、阿仁あに根子ねっこ集落に暮らすマタギでもあります。
3年前に根子に移住して、根子マタギともなった船橋陽馬さん。外側から飛びこんで見えたマタギの世界とはどんなものだったのか。第4回は、船橋さんが撮影したマタギの写真とあわせて、船橋さんのインタビューをお届けします。

秋田県男鹿おが市出身の船橋さんは、東京や海外での体験を経て、2012年に秋田へ戻ってきました。その時点ではマタギへの特別な興味もなく、縁もなかったといいます。

船橋さんの風貌は、自分のイメージの中にある縄文顔なので、勝手ながらザ・マタギだと思ってましたけど、根子に移住した2013年からマタギとなったんですね。

船橋
そうですよ。写真家として独立したのもその年だから、まだどっちもぺーぺーですよ(笑)。ただ、この顔に関しては、やっぱり自分のルーツが気になってるところもあるんです。お寺の過去帳を見たりもしたけど、よくわからなかった。

決して生粋のマタギ家系というわけではない。

船橋
全然違う。北海道へ撮影に行ったときに、アイヌの方から「どこかのアイヌ集落から来たんだと思った」って言われたこともあるので(笑)、そっちの顔だろうなとも思います。アイヌと蝦夷えみしの違いというのも難しいところだし、自分のルーツについては、まだ解決してません。

船橋さんがマタギになろうと思ったのはどうして?

船橋
単純にいうと、マタギの写真を撮りたかったのもあります。自分がマタギになる前に、マタギの猟に参加させてもらって、撮影したことがあるんだけど、やっぱり、みんながいい顔してくれるわけじゃない。なんだけど、それでもその猟でクマが獲れたら、肉を分けてくれたんです。そのこともすごくうれしくて。

「マタギ勘定」と言われる、獲った獲物は完全に平等に配分するマタギのやり方ですね。撮影に入っただけの人間なのに、分けてくれるんですね。

船橋
そう、それはすごいなと。僕のことを認めてなかったマタギの人とか、どういう気持ちで分けてくれたんだろうなと思って。

そんな出会いから、本当に根子に移住してマタギになってしまった。

船橋
実際に鉄砲の免許もとって、マタギの猟に参加しはじめたんだけど、実は、写真なんて全然撮れないんですよ。

撮れない?

船橋
というのも、ひとりのマタギとして扱われるわけだから、みんなにペースを合わせないといけない。鉄砲もしょってるし、カメラは必ずカバンに入れてあるんだけど、カメラを出してる時間さえない。結局、写真が撮れるとしたら、もうクマを獲ってしまって、解体するという現場ぐらいになってしまう。

猟の現場ではカメラマンであるより先に、マタギの一員だから。

船橋
そう。マタギの猟は集団猟で、「がり」といって、猟がはじまると勢子せこがクマを追って、その先で鉄砲を持ったマチバ(射手)が待ってるんですけど、僕はまず勢子。で、勢子になったら、隣りにいる勢子との間でも30~50mは離れてるから、見えるわけでもないし、結局、ずっとひとりで歩くんです。猟の間は、勢子として必死で声あげないといけないし。

ほんとに写真撮ってる場合じゃなさそう。マタギの猟そのものはどうですか。

船橋
いやァ、めちゃくちゃ大変です。とにかく、勢子は大変。マチバの人はある程度、道がついたところを歩いていけるんだけど、勢子は道なき道、藪の中をかき分けて行かなきゃいけない。今は、みんな無線機を持っていて、「勢子はもっと大きな声出さないと、クマがそっち行くぞ」っておどかされて。そんなの大声出して歩くしかない(笑)。最初の頃は、狩りの翌日はいつも声枯らしてました。

クマがいるだろう藪の中を大声出して進んでいく。いかにも大変。

船橋
しかも、めちゃくちゃ怒られるんですよ。「早く来い!」「どこ歩いてんだ!」って。こっちの言い訳なんていくらでも出てくるんですけど、きっとみんなそういうことも通ってきてるから、しょうがないなって。もっと僕が山のことを覚えて、余裕を持って山を歩けるようになってくれば、写真も撮れるようになるんだろうなとは思っています。

まだ3年ですもんね。

船橋
そう。来年すぐに発表しなきゃいけない写真でもないから、ライフワークみたいな形で撮影を続けていたからいいのかなって。だから、デジタルじゃなくて、基本はフィルムでじっくり撮ってます。

何のためにマタギでいるのか

猟の現場での大変さもあると思いますけど、マタギを撮影すること、伝えることに伴う難しさもありますか。

船橋
すごくありますよ。写真を撮ったとして、それをどこまで発表していいのか。動物の保護団体からマタギに対してのクレームというのもあって、僕が写真を発表することによって、そういうことが再燃するんじゃないかって不安もあるんだけど、それについては、これは別に自分の生き方だからって思うし、マタギというのはやっぱり代々伝わってきた文化だなと思うから。ただ、間違った形で報道されるようなことだけは避けたいんです。

マタギというイメージだけを求めてくる人や取材も多そうです。

船橋
そう思います。だから、マタギの人たちがそっとしておいてくれって思う気持ちもわかるんです。みんな誰かに知ってもらいたくてマタギをやってるわけではないし、マタギでお金を稼いでるわけでもない。言えば、マタギはマタギをPRする必要なんかまったくないんですよ。

確かにそうですね。だけど、観光資源になっているところもある。

船橋
僕自身の考えとしては、マタギが観光資源になることよりも、マタギの文化を守って、きちっとのこしていきたい。どういう風にのこしていくか、そのことの方が大事なんじゃないかな。

マタギの文化をのこすには、たとえばどんなことを考えますか。

船橋
僕が根子に住んでいて思うのは、住んでいる人がどんどん減っていくから、ひとりでも多くの移住者が来てくれたらっていうことは、ほんとに思います。これだけ田舎だと、ひとりの力ってものすごく大きくて、それによって地域が元気になる感じがしますね。

船橋さんが根子に移住した後、根子への移住者は?

船橋
いません。だから、根子の集落の人が「船橋さんが来てくれてよかった」って言ってくれることがうれしいし、それだけでも僕はこの土地に来た意味があるなって思います。どうやったら次に移住してくれる人が増やせるのかは、まだちょっとわからないんだけど。

マタギに憧れて阿仁の打当うっとうに移住する人がいるって、鈴木英雄さんが話していましたけど、マタギの文化を伝える意味、そういったところにもあるのかもしれないですね。

船橋
そう思います。僕はマタギの写真を撮りたいっていう、いってみれば下心があったけど、新しく移住してくる子はほんとにマタギのことが好きで、この土地に期待してるみたいなんです。その好きだって気持ちがあれば、この土地で生きていけるんじゃないかなって思います。一方で、この土地で生まれ育った英雄さんやあゆ君(佐藤歩さん)を見ていると、地元の人だからこそたどり着ける境地もあるように思えて。ちょっと自分の息子がうらやましいもんね(笑)。

マタギの世界においても、かつては「旅マタギ」と呼ばれた、土地を移り住んでいくマタギがいたそうです。結果的に、そうやってマタギの文化が各地に広がっていったんだと鈴木英雄さんが教えてくれました。そう考えれば、根子に移住して子どもが誕生した船橋さんは、マタギの文化を継ぎながら活動する“旅カメラマン”でもあります。
生まれ育った土地でできること、移り住んだ先の土地でやれること。それぞれの力が折り重なって、今の日本の地方の豊かさがあるんだとつくづく思います。

⑤山よ、マタギよ へつづく

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