秋田のいいとこ 旅で出会った、ローカルスタンダード

編集・文:矢吹史子 写真:高橋希

ガイドさんは入植者! 干拓博物館で大潟村のリアルを学ぼう。

2019.05.08

大潟村おおがたむらは、1964年、日本で2番目に大きい湖だった「八郎潟はちろうがた」を干拓して生まれた村です。その大部分が農地。日本農業のモデルとなる農村を目指して作られ、全国各地からの入植希望の中から589戸が入植しました。

その背景が丁寧にまとめられているのが「大潟村干拓博物館」。恥ずかしながら、私はまだ行ったことがなかったのですが、なんとこの博物館、事前に申し込みをしておくと入植者の方が自ら館内や村をガイドをしてくださるというのです。早速、申し込みをして、数日後、博物館を訪ねました。

この日のガイドを務めてくださる、大潟村案内ボランティアの会、会長の石原敏子いしはらとしこさんがお待ちかねです。

石原さん
石原さん
私は、第4次入植者の妻です。今から49年前、長野県上田市から、夫とともにここにやってきたんですよ。

——ご主人は長野でも農業をされていたんですか?

石原さん
石原さん
夫はそれまでは小さな町工場でプラスチックを作っていたんですが、元々は農業がしたかったんですって。私は私で、「あの山の向こうには何があるのだろう……?」と思いながら、長野で生きてきました。
だから、夫が「八郎潟干拓地へ行きたい」って言ったとき「山の向こうに飛び出すチャンスだ!」と。

——お互いの欲望が一致したんですね!

石原さん
石原さん
そうそう。入植が決まると同時に結婚して、こちらにやって来たんですよ。今は息子が跡を継いで、田んぼでお米と畑作でネギを育てています。

では、館内をご案内していきますね!
石原さん
石原さん
こちらが、干拓前の八郎潟です。八郎潟は、東西12km、南北27km、周囲82kmの、琵琶湖に次ぐ、日本で2番目に大きな湖でした。ここは汽水湖きすいこといって、海の水と川の水が混じる湖だったので、魚の種類が70種類以上もある豊かな漁場で、周辺では何千人もの漁師がここで生計を立てていたんですよ。
石原さん
石原さん
八郎潟は、平均水深4メートルの浅い湖でした。ご存知かもしれませんが、干拓というのはよそから土を持ってきて埋め立てるのではないんですよ。はじめに湖の周りに堤防を築いて、堤防の内側から水を汲み出すんです。
石原さん
石原さん
私たちはいま、かつての湖の底にいるということをイメージしてみてくださいね。
村内にある「大潟富士」は日本一低い山で、富士山の1000分の1の3.776m。人工の山で、山頂が海抜0mの高さになっている。

干拓はなぜ行なわれた?

石原さん
石原さん
これが、干拓工事中の八郎潟です。湖の8割が大地になりました。昭和32年から始めて、でき上がったのが昭和52年。八郎潟の工事がすべて終わるまでには20年かかりました。
石原さん
石原さん
このように干拓されることになったのにはいくつかの理由があります。 そのひとつが、食料不足。昭和30年代、日本は深刻な米不足でした。そして、農家の次男、三男対策です。昔は何人も子どもがいましたし農地が少ないので、ふるさとを離れて出稼ぎに行ったりしなければならなかったんですね。それから、八郎潟周辺の田んぼは強い西風が吹いたり、水害もとても多かったんですね。

それらを解消するためにここに農地が作られたのですが、もうひとつ、国際的な背景もあるんです。

——国際的な背景?

石原さん
石原さん
はい。第二次世界大戦後、サンフランシスコ講和条約を結ぶ際に「敗戦国の日本に賠償金を求めない」としたアメリカの方針に対して、オランダが反発したんですね。そこで「八郎潟を干拓するために、干拓の先進国であるオランダに技術協力得てその対価支払う」という形でオランダの同意を得た、そういった背景もあるんですね。
石原さん
石原さん
私はね、干拓以前に八郎潟周辺で暮らしていた方々の話を聞いたりすると、偉大な自然を奪ってしまったようで、ここで農業をしていることに後ろめたさを感じることもあったんですが、でも、そういった国際的な背景があることを知って、少し胸を撫で下ろすことができるようになりましたね。

圃場と住宅のはなし

石原さん
石原さん
そして、これが平成10年の大潟村ですね。砂地で地盤の固いところに、住宅も役場も病院も学校もすべてまとまって配置されています。

——それぞれの田んぼはどうやって決められたんですか?

石原さん
石原さん
圃場はA〜Hまであって、1次入植者から順々に割当てられました。全てくじ引きでね。うちの田んぼは自宅から13kmも離れたDの圃場。これまでどれだけガソリンを使ったことか……。 1枚の田んぼは、横90m、縦140m、1.25ha。それを、各農家で約10〜12枚持つのが平均的な規模です。
石原さん
石原さん
ところでこの田んぼ、タダでもらったと思ってるでしょう? じつは私たち入植者は1年間に360万円、約25年間払って、やっと償還が終わりました。それでも、コンバインやトラクターなんかの大型機械は高価なので、その支払いは大変です。
それに、ここへ入る条件として、携行資金200万円が必要だったんです。携行資金というのは、いわゆる自分たちの営農費や生活費だね。それは最低限持って入植するのが条件でした。

——なかなかハードルが高いですね。

石原さん
石原さん
大変なようにも思えますが、私たちに与えられた住宅はきちんとしたものでしたし、道路もきちんと整備されていましたし、手厚く保護してもらいました。それにはとても感謝していますね。

——住家は用意されていたんですね。

石原さん
石原さん
はい。いくつかの基本形があって、その中から自分で選ぶことができるようになっていました。これは、入植者の住まいを再現したものです。
石原さん
石原さん
12帖の居間、奥には玄関やトイレ、お風呂場などがあります。モデル農村を作るために「写真映えの良い家を」ということで、地区によって屋根が青、赤、黄、というふうに分かれていて、うちは赤でしたね。
石原さん
石原さん
ブロックでできているので、すごく丈夫。そして、昭和45年にしては最先端、水洗のトイレでした。私なんか山奥から来たじゃない? 水洗のトイレを使うのが逆にもったいなくて、外出先で用を足して帰ってきたりしていましたよ。

水が循環する村

石原さん
石原さん
先ほどお伝えしたとおり、ここはかつては水の底でしたから、いつも水位を保って水をかき出さないと、すぐ水の底になってしまいます。村の周りには、堤防が巡っていて、防潮水門と、南北にある排水場から、大潟村が水に浸らないように常に排水しています。
石原さん
石原さん
1秒間に2つのポンプで最大80トンの水を汲み上げて排出することができるんですが、頭上にある大きな三角錐は、その80トンを表しています。
石原さん
石原さん
そして、大潟村はほとんどが田んぼですから、水を利用します。そのための水路が網の目のように、血管のように、田んぼの中を駆け巡っています。

——排水しつつ、取り入れるところもある。常に循環しているんですね。

石原さん
石原さん
まさに昨日から、田植えのための水を入れ始めましたね。このように、出したり入れたりを常にしているので、大潟村は日照りのときに水がない、ということはないんですよ。

入植訓練所で生まれた絆

石原さん
石原さん
入植者(世帯主)ははじめに、4月から秋まで、大潟村の中にある入植訓練所に入って共同生活をします。そこでは、種まきや大型機械の操縦なんかを学ぶんですが、一番大きかったのはグループの絆を作ることだったかもしれません。当時、個人営農は許されていなくて、大型機械を5〜6軒で共用してグループで営農していたのでね。

——入植者のご家族は訓練所を終えてから大潟村に来たんですか?

石原さん
石原さん
私もそうでしたが、世帯主が訓練を終えてからその家族が入植するという形ですね。訓練所時代は楽しかったみたいよ。毎晩お酒を飲みながらそれぞれの夢を語り合ったんだって。当時、若い人で20代、一番年上の人で40代くらいだから、青春よね。

——石原さんはどんなグループだったんですか?

石原さん
石原さん
私たちのグループは、昔流行っていた海外のテレビ番組から一部とって「ララミー農場」っていう名前を付けていたんですけど、誰も農業をしたことがない人たちのグループだったんですよ。東京、静岡、長野……20〜23歳の若者たちで、手を動かさずに議論ばっかりしてるから「学者農場」って揶揄されてね。 はじめの6〜7年間はグループ営農でしたが、それ以降は個人でやっていくようになりました。

軟弱地盤との戦い

石原さん
石原さん
これは、大型機械を使った土地の整備の様子ですね。実際に使っていたトラクターです。湖を干拓してできた土地ですから、常に軟弱地盤との戦いでしたね。

——土地がぬかるんでいるから、大型機械が埋まってしまうんですね?

石原さん
石原さん
そうなんです。こういった状態になることを「カメになる」って言うんです。カメがジタバタしている様子から。こうなってしまったら、タイヤに木を添えて、もう一台のトラクターで引っ張り出すんですよね。
「今日はもう暗いから明日の朝にするべ」と帰って、次の朝やってきたら機械が半分も埋まっていたとかいう話も少なくなかったんですよ。
石原さん
石原さん
振り返ると、入植してからの年月は、大地が乾燥していくことと大型機械が進化していくのを目の当たりにする年月でもあったなと思いますね。 手植えから始まって、歩行型の田植機が4条から6条に進化して、そこから乗用の田植機が6条から8条になっていって……いまは10条ですからね。

入植して50周年

石原さん
石原さん
今年は私たち4次入植者の50周年にあたる年なんです。

——秋田に来られて、文化の違いもあったのでは?

石原さん
石原さん
あったね〜。こんなにも雅な文化があるのかってびっくりしましたね。服装も文化も、お祭りなんかもたくさんある。ただ、気候がね……。湿気もそうですけど、なんでこんなにお日様が照らないの?! 長野なんてカッ!と照りますからね。それが辛くて「太陽の出ているところに逃げ出したい」って思っていましたよ。
桜の名所でもある「南の池記念公園」には、入植者全員の名前が掘られたモニュメントがある。石原さんのご主人の名前も。
石原さん
石原さん
住みやすくなったのは、子どもが保育園に入ってから。知り合いができてくると、そこは住みやすい場所になっていくんだなって思いますね。人間関係を作っていくのには、長い年月かかりましたよ。
石原さん
石原さん
今になって思うのは、入植者と一緒にここに来たお年寄りっていうのは、どれだけ大変だっただろうと。ここに入るための条件として「ふるさとの田畑を処分してから来ること」というのがありました。ということは、もう戻れない、ということなんですよね。
入植者の半数は秋田県内から。残り半数の多くが北海道からだが、遠くは沖縄からの入植者も。

——退路を断たれてしまうということですか?

石原さん
石原さん
そうですね。うちは夫と二人だけだったし、子ども産んで夢中で子育てをしていましたけれど、息子の夢を叶えるために一緒にやってきたお年寄りは心細くて辛かっただろうと思いますね。

——今日はリアルなエピソードをたくさん伺えて、感動しました。

石原さん
石原さん
この案内ボランティアはいま、23名おりますが、その全員が農業者でここに住んでいます。そういうのは珍しいんじゃないかと思います。 私たちは、ガイドというよりは語り部ですね。自分たちの体験を語り継いでいく。とくに、かつての農作業の説明の段ではいきいきと話し始めますよ!

——ほかのガイドさんに案内してもらったら、また違ったお話が聞けるんでしょうね。

石原さん
石原さん
でも、これがいまの若い人たちの世代になると、どうしても苦労や記憶は薄まりますよね。熱が冷めてしまう。これをどうしていくかが課題でもあります。 たくさんの方に伝えていきたいので、ぜひまたいらしてくださいね。

【大潟村干拓博物館】
〈住所〉 秋田県南秋田郡大潟村字西5-2

〈TEL〉 0185-22-4113
〈開館時間〉 9:00~16:30(※入館は16時まで)
〈休館日〉 4月~9月:毎月第2・第4火曜日

     10月~3月:毎週火曜日

     年末年始(12月31日~1月3日)
(火曜日が祝日の場合は翌日が休館日)
〈入館料〉 一般・大学生:300円(250円)

     小中学生・高校生:100円(50円)

     ( )内は15名以上の団体料金です。

〈HP〉 http://museum.ogata.or.jp/