


- 1西馬音内、冷やかけそばめぐり
- 2地を潤す麦酒—羽後麦酒—
- 3鎌鼬がおしえてくれた、ほんとうの豊かさ
- 4家族を守った、母のソース。〜そばの町に佇むやきそば屋さん〜
- 5原動力は、親への思い? 農家民宿「阿専」へ。
編集・文:矢吹史子 写真:高橋希
鎌鼬がおしえてくれた、ほんとうの豊かさ
2019.10.16
『鎌鼬』という写真集があります。これは、舞踏家の土方巽と写真家の細江英公が、昭和40年、羽後町田代を訪ね、撮影したもの。この写真集をきっかけに、平成28年には「鎌鼬美術館」も誕生し、田代はいま、舞踏のメッカとして、世界中から観光客が訪れる場となりつつあります。
土方氏と細江氏は、なぜこの町にやってきたのか? この写真集によって、町にどんな変化が起こったのか? 美術館の館長を務める、菅原弘助さんにお話を伺います。


——そもそも、舞踏とは、どんなものなんでしょうか?
菅原さん- 舞踏というのは、同じ踊りでも、クラシックバレエなどとは対局にあるものといわれています。「暗黒舞踏」と呼ばれることもありますが、きれいな踊りというよりは、お百姓さんが田んぼにいて労働する姿……がに股だったり、腰が曲がっていたり、時には病人であったり。そういう、自然体で現実的な部分に目を向け、表現するものなんです。そこにこそ、光や真実があるのではないかと考えられているんですね。これを最初に始めたのが土方巽なんです。

——土方と田代の繫がりというのは?
菅原さん- 土方巽自身は秋田市の生まれなんですが、父親が羽後町の生まれなんですね。この美術館の建物である旧長谷山邸の隣には土方のいとこが暮らしていて、その縁で、土方は幼少の頃こちらに来て、田代という場所に感動したそうなんです。「日本の原風景が残っている」と。


菅原さん- 峠を越えてきたら、ずーっと田んぼが広がっていて、お百姓さんが働いている。そして、3階建てのお城のような家(長谷山邸)もある。いま、この建物のすぐ前にある郵便局や駐車場は当時米蔵でしたしね。何もないと思っていた山奥に、異次元のような世界があったというわけです。

菅原さん- 土方は、秋田を離れてからは東京の各スタジオをわたり歩いて、モダンダンス、ジャズダンス、パントマイム、クラシックバレエ……さまざまなジャンルを経験してきたそうですが「自分がそれらをするのでは、欧米のモノマネにすぎない。日本人独自の、自分だけの踊りを踊りたい。それを表現できるのは、あの田代だ。」と考え、細江氏と二人でここへやってきました。


菅原さん- 二人が田代に来たのは、稲の刈り入れの真っ最中の、9月26日、27日。農家は猫の手も借りたいほど忙しい時期なんですが、突然の訪問ながらも、田代の人たちはその撮影に協力したんですね。たばこ(農作業中の休憩)をしているところに飛び込んで演技をしたり、ときには驚かせたりもしたそうです。土方は人を巻き込む魅力があった人のようなんですね。


菅原さん- これは「飯詰め」っていうんですが、お百姓さんたちは、これに赤ちゃんを入れて、野良仕事の傍らに置いておくんですね。土方自身も、これに入れられていたのですが、親たちは暗くなるまで農作業をしていて帰ってこなかった。土方は、子ども心に、うらめしさのあまり、迎えに来た親と目を合わせなかったと言っています。

菅原さん- 二人が田代に来たときにも、同じように飯詰めに入った赤ちゃんがいた。それを見た土方が「あの日の俺だ」と、当時の記憶がフラッシュバックして、そこにいる赤ちゃんを抱きかかえて踊ったのがこの写真です。そうすることで、あの日の自分を解放することができたようです。


——町の人たちというのは、突然やってきた土方たちにどんな印象を持ったんでしょう?
菅原さん- きっと意味不明だったでしょうね。得体が知れないので、薄気味悪く感じたんじゃないでしょうか? 実際に撮影を見た人たちも、それを敢えて言葉にすることはなかなかありませんでした。

菅原さん- そこから月日は流れて「国民文化祭・あきた2014」では、秋田市で「舞踏・舞踊フェスティバル」が開催されたんですが、その際、田代にもマイクロバスが2台やってきた。そして「鎌鼬の里を見に来た」というんです。しかもその半数以上が外国人。
これだけの人が田代にやってくるということに感動を覚えて「これは地域の宝だ」ということで、町の有志で美術館を作ろうと決意します。
一方、私は1986年1月から「ゆきとぴあ七曲」というイベントをやっていまして、そこでは「花嫁道中」など、冬の羽後町を楽しめるような催しをしていたんですが、土方と舞踏の世界に感動して、1988年、1989年に、土方の奥様の元藤燁子さんと長女のガラさんと門下生を招いて、雪の舞を踊ってもらったことがあったんです。

菅原さん- 本当に、こうなるなんて自分でも予想だにしなかったんですが、いろいろな縁が繫がって、「これは、自分が生きているうちにやるしかない」と思いましてね。美術館の立ち上げに参加しました。

菅原さん- 美術館ができてからは、年に一度「鎌鼬の里芸術祭」というものも開催しているんですが、そこにも世界中の人々がやってきます。舞踏の披露をするのはもちろん、シンポジウムや、西馬音内盆踊りなどの伝統芸能の紹介などもして。1年ごとに国際的な芸術祭になりつつあります。

——土方のルーツ、舞踏のルーツとして、聖地のようになってきているんですね。
菅原さん- そうですね。何より驚くのは、風景や人、食など、町そのものの全く飾らない姿が評価されていることです。舞踏をする人、写真を撮る人などが、海外からこの町を見に来たがるわけですよ。そして、この土地の土をトランクに詰めていったりして(笑)。甲子園みたいにね。 地域性豊かなものには国際性がある、といいますか。欧米では、舞踏というのは、日本国内よりもはるかに評価されている。このような日本的な文化を、尊敬のまなざしで見てもらえている。

——そういうなかで、町の人たちの変化というのもあるのでしょうか?
菅原さん- まだ、半信半疑かもしれませんね。美術館の準備の際には、関係者から「海外から客が来るなんて、考えられない」「建物改修には金をかけずに、地元の大工に頼むなりして、行うべきだ」などという声もありました。
でも、今となってはとんでもない話で。改修についてもきちんと専門家に頼んでよかった。ここへ来るみなさんは、この建物自体にも感動してくださるんですよね。
——この先の展望などはあるものですか?
菅原さん- ここにはいろんな可能性がありますよね。一年ごとに着実に進めて行きたいと思っていますが、例えば、これまでの資料をアーカイブする施設も作っていく予定ですし、舞踏にまつわる学校や塾を開いて人材育成もしていきたいですね。それに、西馬音内盆踊りのような、ほかの資源との繫がりも出てきますよね。
——舞踏やこの場所を軸にして、他への広がりが出てくる、と。
菅原さん- 土方がそういうものを呼び込んでくれたんだと思っています。彼は舞だけでなく、詩や小説も書いている。だから、文芸関係への可能性もあるし、ここでは稲を「ハサ掛け」という方法で自然乾燥をしている。写真集にも出てくるこの風景を通じて、食の方面にも繫がっていくんですよね。

——菅原さんご自身は、この美術館ができてからどんな変化がありましたか?
菅原さん- 地元の若い人たちというのは、多くが都会に出てしまっているんですが、最近はこちらの空き家に住みたいという首都圏の人たちが増えていて、逆転現象のようなことになってきている。
若い頃というのは、自分のふるさとの良さには気がつかないものなんですよね。私も実際「なんでこんなところに住んでいるんだろう」と思う時期もありましたよ。ここは冬になると雪に閉ざされてしまう、陸の孤島のような場所でしたからね。都会に生まれただけで体験できることも全然違います。でも、それは一部のことでしかない。ここで生まれ育ったことが、いま、どれだけ幸いしているか。

菅原さん- 今では、「足元に全てがあった」そういうふうに思えるんですね。自分がこの土地で見ているものというのは、世界中の人を感動させることができる。
本当に、信じられないことが起こっていると思っています。我々が毎日やってきたことがそのまま歴史になっていくような。ちょっと怖さを感じるほどですよ。

【鎌鼬美術館】
〈住所〉秋田県雄勝郡羽後町田代梺67-3
〈TEL〉0183-62-4623(鎌鼬の会事務局)
〈開館時間〉10:00~16:00(受付最終)、最終閉館16:30
※土・日曜、祝日のみ開館
※11月後半~4月まで冬季休業あり。
〈入館料〉300円(高校生以下無料)
※団体割引 270円(10名以上の団体様)
※5名以上の団体様は事前にご連絡頂ければ休館日でも対応可能。